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ch.16

先生と“デート”をしたクリスマス・ホリデーは、何度思い返しても夢のようで、休暇の間はずっと、フワフワとした夢心地に包まれていた。 1月。新年が明けると、いつも通りの味気ない学生生活が戻った。休暇から時が経つにつれ、意識はイヤでも現実に塗り変えられて、先生に会いたい気持ちが募った。クリニックに行く理由があるとすれば、体の検査をしてから半年が経っていたから、定期検診という真っ当な理由があった。けれど、ジョセイキを触るようになってしまった今では、半年前とはまた違う強い抵抗感があって気が進まない。それでも結局、クリニックに電話をかけたのは、先生に会えない苦痛の方が強かったからで、僕は、どうしようもなく彼に恋をしていた。 そして1月の下旬、4週目の金曜日、いつもの18時に予約が取れた。 「やぁウィル君、元気だった?」 今日も朗らかに僕を迎えた先生は、検査に対する緊張を束の間でも忘れさせてくれた。ワックスでラフに散らしたヘアスタイル、シンプルな白シャツにコルク色の薄いセーターを重ねて、濃紺のスラックスというコーディネートは、インテリな印象を強調している。良家の大学生の子息か、図書館の司書みたいだと眺めていると、「どうしたの?」と不思議な顔をされたから、慌てて目をそらした。 「…それで、今日は?」 「あの…その、前回の検査から半年たったので…そろそろかなってーーー」 「ああ…!」 腰を上げてデスクに戻った先生は、PCのディスプレイに向かうと、しばらく何かを、恐らく僕のカルテを確認していた。 「前回の検査は…6月末か、そうだね、検査をしよう」 「…しなきゃ、いけませんか?」 「別にマストじゃない、けど、主治医としては定期的な経過観察はしたい」 「…はい」 「……大丈夫?」 僕を見つめる目元が、少し陰った。 前回僕は、検査の後に泣いてしまった。そんなこともあって、今、ここに来るようになったんだとこの半年のことを思い出しながら、「大丈夫です」と答えた。 先生は「わかった、じゃあ少し待ってて」と電話の受話器を取ると、ファロンさんを呼んだ。 ファロンさんは、ただの受付の人じゃなくて、実際のところは看護師らしかった。診察室に入ってきた彼女は、僕を「こちらにどうぞ」と右の壁の焦げ茶のドアに案内すると、パーテーションの向こうを指して「下を脱いで、検診台に座ってください」と言った。 この半年、無縁だった検査室は、半年前に検査したバーソロミューの無機質なスペースとは全然違った。薄いクリーム色の壁紙は、一面に淡いブルーやチョークピンク、グレーでバラが描かれていて、とても女性的だけど優しい色合いが落ち着ける。荷物を置く台やカウンターはアンティーク調で、窓がないことと検診台があることを除けば、田舎のカントリーハウスの一室みたいで、嫌な感じがしなかった。 制服のパンツと下着を脱いで検診台に座ると、ファロンさんが手早く腰の上のカーテンを閉めて、「少しお待ち下さいね」と優しく言ってくれた。 そして、先生が入ってくる気配がすると、僕はやっぱり緊張した。 カーテンの向こうに来た先生は、「さっさと終わらせちゃおう」とさばさばしていた。言い終わらないうちに検診台が上がり、背が倒れ始めて脚が開かれていく。 「…っ」 何が起きるかわかっていても、相手が想い人でも、怖さは拭えなかった。検診台が止まり、カーテンの向こうで体が曝け出された時、僕はまた、人形になった気がした。 「力を抜いてて、痛かったら言ってね」 今ではよく知った所にゴムの指が触れ、息をつく間もなく固い器具が挿入される。冷たい感触に体中が冷えて、凍りついた心がぱきんと割れてしまいそうだった。体の中で器具が動く痛みには、やっぱり慣れない。そして、あんなに望んでいたはずなのに、先生にそこを見られる羞恥は前回と比べ物にならない。反射的に閉じかけた脚は固定されて動かせず、自由が効かない絶望に飲み込まれそうになる。 「もう少し…」 大好きな人が囁いて、嬉しくて、頭の中で「助けて、先生」と繰り返していると、忌々しい器具の感触が消えた。 「…終わったよ、大丈夫?」 ようやくまともに息をつくことができた僕は、なんとか「はい」と答えた。 服を着て診察室に戻ると、既にファロンさんがミルクたっぷりのラテを用意してくれていた。 先生がデスクで何かを作業をしながら「ゆっくりしてて」と声をかけてくれ、僕は、ソファに深く掛けた。ラテに口をつけると、温かくてほっとできたけど、二度目といえどもやっぱり辛かった検査のショックに放心していた。 「…お疲れさま、落ち着いた?」 先生が僕の前に腰を下ろして、はっと我に返った。 真剣に僕を覗く瞳は、前回の僕を思い出しているのかもしれなかった。 「大丈夫です、やっぱ、アレ、慣れないなって…」 「好きな人なんていないよ、たぶんね」 先生の顔が和らいで、少しだけ、気が楽になった。 「そう、ですよね…」 「気分が悪いとか、少し休みたくなったら遠慮なく言ってね」 「ありがとうございます…今は平気です」 「わかった」と頷いた先生は、僕の前にエコー検査の画像をプリントアウトした紙を並べた。 それが僕のジョセイキの中だという実感は今回も湧かず、僕はただ、先生の長い指をぼんやり見つめていた。 「結論から言うと、前回と変わらなかった、つまり、子供を作る機能は働いてないよ」 「…はい、わかりました」 「前にも言ったけど、もし、生殖機能について何か希望ができたら、いつでも言ってほしい」 「…はい」 と答えた後で、先生が言っているのは、ホルモン治療とかそういう選択のことかと気づくのにしばらく時間がかかった。 そして今、僕は、男である先生に恋をしていても、ジョセイキを機能させて子供を作りたいなんて考えたこともないことに気がついた。 「何か質問はある?」 「いえ、特にありません」 本当に。僕は、今の僕の体に不満はなくて、そのままでよかったと思えていた。 「じゃあ、検査は以上だよ、念のため、ご両親にも結果を伝えてね」 「はい」 「…イヤかもしれないけど、また半年後、診せてほしい」 プリントをまとめた先生は、以前のように茶封筒に入れて僕にくれた。 「それじゃ、送ってくけど…その前に、少し待っててくれる?」 ジャケットを羽織り、コートハンガーからコートとストールを取った先生は、帰り支度をしているのかと思ったら違うみたいだった。 「もし疲れてるなら、ベッドで寝てていいよ」 「…ここでいいです」 「そか」と笑った先生は、足早に外に出て行った。

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