18 / 42

ch.18

視界がほとんど暗転して、自然と目を閉じていた。ぼーっとしすぎて、幻覚でも見ているのかもしれないと思った。それでも、重なる唇とひそめた吐息は温かく、確かに優しく擦れている。知っているはずのそれを、これがキスだと初めて知った気がした。顔の角度を変え、開いた唇で受け止めた舌を舌で探ると、ブラックコーヒーの味がした。 僕は、先生とキスをしている。嘘みたいな現実に我に返って顎を引くと、彼がゆっくり目を開けた。 「…せん、せ?」 先生は、今まで見たこともない表情で僕を見つめていた。 「…ど、ゆ、こと?」 先生の右手が持ち上がり、指の甲が僕の頬にそっと触れた。 「ウィル…」 「…っ!?」 翻った指先が静かに僕の頬を撫でて、僕は息を飲んだ。これまで一度だって、名前だけで呼ばれたこともなければ、肌に直接触れられたこともなかった。 怒ったような苦しいような先生の顔は、欲情した男のそれだ。ようやく気づいた僕は、先生の首に腕を回して、「先生」と呼んだ声は、また、言葉になる前に彼の唇で消えた。 この狭い車内で、どうやって抱き合っているのかよくわからない。先生の腕は強く僕の背を抱いて、彼にしがみついた僕の手は、冷たいジャケットを感じている。 苦しい息をつくたびに彼は深く唇を重ねて、強い舌が僕に潜り、触れ合う舌が絡まって、彼の唇に誘い込まれる。どこからが僕で、彼なのかもわからない。夢中で吸って、吸い取られながら彼の舌を呼ぶ。僕の頬を包む手が耳へ滑り、髪を撫でて、コーヒーとラテの混じった唾液を飲み込んだ時、甘いため息が漏れた。 「せんせーーー」 少しだけ乱暴に唇が塞がれ、ずっといやらしく舌を絡め取られる。唾液に浸した舌が吸い合って、ざらりと張り付く粘膜が気持ちいい。 ふいに、僕の腿を撫で上げた手が股間に滑り、大きな手のひらに制服越しにペニスを撫でられた時、僕はまた、我に返った。 「せ、んせっ…」 突っぱねた肩は重く、唾液に濡れた唇から熱い吐息がこぼれていた。 「こんなとこで、ぃやだっ…」 股間を弄(まさぐ)る手の感触が消えて、額に彼の額が擦り付けられた。 「…ごめんっ…」 こんなことをして、先生から聞きたい言葉はそんなんじゃなかった。 「せんせい…」 「…っ」 「…ぼく…かえりたくない…」 「………」 生まれてこの方、これ以上ないと思う甘えを口にすると、先生は僕を強く抱き締め直した。 もう一度しがみついた背も、触れ合う胸も、耳も頬も首も熱く、そして、初めてまともに嗅いだ先生は、甘く柔らかなウッディのフレグランスが控えめに薫った。 * * * 車は、元来た道を辿り、途中からロンドンの中心部へと続くルートを直進していた。 信号待ちで、先生が電話をした。相手は僕の家のようで、話しているうちに母さんだとわかった。彼は、クリニックに検査に来た僕が体調を崩して寝ていること、今夜は“預かる”こと、明日僕をちゃんと送り届けると伝えて、どうぞご心配なくと言って通話を切り、スマホをホルダーに戻した。 こういうことが、大人になるということなのかもしれない。 先生の顔を見る気になれず、窓の外を眺め続けていた。一度でも目を合わせてしまったら、先程以上のキスをせずにはいられない気がしていた。 景色が都会になるにつれ、舞い散る雪が強くなっていく。シートに置いていた右手に、彼の指を感じた。手のひらを返して握り合った手を、僕らを隔てるアームレストに置いた。時々、彼の親指が僕の手のひらや手首をくすぐって、焦れた欲求を教えてくれるたびに、その手を握る力を強めて応えた。 こういうことも、大人になることなんだろう。 「…なんか、食べてこう」 静かな声にスマホを見ると、20時になろうとしていた。トッテナム・コート・ロードを南下していた車は右折して、BTタワーの近くの駐車場に入った。 どこかへ向かう先生に、肩を並べて歩く勇気はなかった。少しだけ左の後ろを歩く僕の手を彼が取って、手を繋いで近くの回転寿司スタイルのファストフード店に入った。あえてカウンター席に並んで座ったのは、テーブルで顔を突き合わせて食べる余裕なんて彼もなかったからだと思う。ほとんど無言のうちに食事を終え、そそくさと車に戻った僕らは、ドアが閉まる前に腕を伸ばして、互いに引き寄せた体を抱き締め合って、かぶりつくようなキスをした。ソイソースとサーモンの味のキスはあまりロマンティックじゃない気がしたけど、早く二人きりになることしか考えていなかったと思う僕らには、密の味より甘かった。 再び車はロンドンの中心地を進み、官公庁の並ぶ通りを更に南下していた。スマホで何かを確認した指が僕の手に降りて、また、手を繋いだ。 雪にけぶるビッグ・ベンを左手に過ぎてさらに直進すると、次の大きな交差点の左に橋が見えた。いつか彼が、ランベスの辺りに住んでいると言っていたのを思い出す。ランベス橋をテムズの南岸へ渡り、左手にランベス宮殿を過ぎた所で僕の手から彼の手が離れた。 そして、先生がステアリングを大きく右に切ると、車はモダンな高級マンションの地下駐車場に滑り込んだ。 手を引かれて、彼の後を歩く。肩を並べたリフト(エレベーター)でも、顔を見ることができない。5階で降りて、黒い大理石の床を手を引かれて歩く。床に映った僕の顔は、不格好に歪んで見える。大人なら、こんな時は平静を装えるんだろうか、そう思いながら、5005号室の黒いドアに手を引かれて入った。 そしてまた、ドアが閉まりきらないうちに抱き合って、唇を重ねながら導かれていくのは、リビングでもダイニングでもない。焦れる手で互いのコートを剥いで、ジャケットを脱がして、こんなドラマや映画みたいなこと、本当にあるんだと思っているうちに、僕らは、寝室に転がり込んでいた。

ともだちにシェアしよう!