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ch.30

オナって下も履かずに寝落ちてしまったのが災いしたのか、僕はうっかり風邪を引いた。幸い熱はないけど鼻水が出て、少し喉が痛んだ。 先生には「ちょっと風邪をひいた」とだけ報告したけど、心配されるのがわかってたから詳しいことまで言わなかった。案の定、彼は「大事をとって休め」とか「暖かくして栄養を摂って寝てろ」みたいなことを言ってきたけど、「大丈夫」と返してふんわりスルーしていた。 病院に行くほどじゃないから市販薬を飲んでいたけど、結局、クリニックに行く金曜日になっても、まだ鼻水がずるずるしていた。 そして、クリニックの予約時間。 いつものようにファロンさんに丁寧に迎えられ、いつものように雑談なんかをして診察室に入ると、僕を出迎えた先生の顔は浮かなかった。 先生は僕の顔を見るなり眉をひそめて、「風邪、治ってないの?」とデスクから立ち上がった。 今日の彼は、ブルーのストライプシャツに前に僕が潮を吹いたベストを重ねて、黒に近い灰色のスラックス姿で、そう深刻な顔をされると医者然として素敵だななんて見惚れてしまう。 「うん、ちょっと鼻水出てるだけ、喉は楽になってきた」 「だけ、じゃない、鼻、真っ赤だよ」 ティッシュボックスをハイと差し出されて、僕は鼻をかんだ。 ちょうどお茶を持ってきてくれたファロンさんに先生は水とホットミルクを頼むと、彼女が出て行ったのを見計らって、声を絞った。 「…ウィル、もしかして…あのオナニーで風邪ひいた?」 「……まぁ、うん、そうかもーーー」 「やんなきゃよかったな」 先生は額を押さえると、ガックリ肩を落とした。 「ごめんなさい…」 「君は悪くないよ、主治医失格だ」 立ち上がった先生は、デスクの引き出しを漁って戻ってくると、僕の前にピルケースを2つ置いた。 「はい、この2錠とこっちの1錠飲んで、残りは寝る前に飲むこと、明日鼻水出してたらデートはなしだーーー」 「やだ!」 「やだじゃないよ」 「いやだよ…すごく楽しみにしてたんだからーーー」 「僕だってそうだ、でも、君の体のほうが大切だ」 「大丈夫だよ、風邪くらいーーー」 「甘く見すぎ」 その時、ドアがノックされて、僕らは黙った。 水とホットミルクを持ってきたファロンさんに、先生はにこやかに「たびたびありがとう、お疲れさま」と労った。そして彼女が退出すると、また渋い顔になった。 「これ早く飲んで、明日出かけたいんだよね?」 「デート、する…」 言われた通り薬を3つ飲むと、ほっとしたのか僕を見据える顔が少し緩んだ。 「今日はもう帰ろう、ちゃんとご飯食べて、薬を飲んで早く寝るんだ」 「…そんな、言い方しなくても…」 僕の声に、はっとした先生は、口を開けたまま固まった。そして慌てて僕の側に掛けると、優しく僕を胸に抱き寄せた。 これまで、彼がこんなに動揺したのは見たことがなかったから、少し驚いてしまった。初めて会った日、僕が泣いてしまった時でも、彼はこんなに動揺していなかった気がする。 「…ごめん、つい、医者過ぎてた」 今、僕の髪に口付けて、肩をそっと撫でている彼は、アレックだった。 彼の首元に寄せた頬が暖かい。首を横に振って、彼の背に腕を回して甘えた。 「僕がバカだったから…」 「熱はない?」 「大丈夫」 「怠さはない?」 「うん、平気…あれ、なんの薬?」 「鼻水抑えるのと、粘膜を調えるやつ」 「ここには薬もあるの?」 「違うよ、前に自分が使って残ってたのをストックしてただけ、処方薬のほうが市販薬より効くし、いざという時のために」 「そういうの、いいの?」 「あんまりよくない」 「不良医者」 「うん」 僕を抱く身体がクスクスと揺れて、そっと僕を離した。 「ミルク飲んで、温まったら、送ってく」 「うん」 ホットミルクを飲む間、僕らは体を寄せ合って、本当に他愛もない雑談をした。 先生は、スタバの季節限定のラテが甘すぎるとか、今読んでる本とか、学会や論文なんかの少し専門的な話をして、僕は、学校でのことや、勉強はまずまずできていることや、家族やバイト先のことや、好きなフットボールチームの話なんかをした。 思えばこの時、僕らは初めて、まとまった時間を使って互いのちょっとした日常が垣間見える話をして、ほんの少しだけでも、互いの知らなかった部分を知った。 それが僕には、なんだかとても嬉しい気がして、ミルクを飲み干してしまうのが惜しかった。 帰りの車の中で、僕らはいつもみたいに手を繋いで、もう少しだけ、些細な日常のことを話した。これまで、そういった話をあまりしなかったのは、したくなかった訳じゃない。まず第一に、医者と患者という関係だから体に関することが最優先で、その次に来るのが恋人同士の語らいだから、ごく自然と個人的な話が後回しになってしまっていただけだった。 そして僕は、“恋人”というワードを思い浮かべた時、意識していなかったその言葉の甘さに、今更ながらにドキドキした。 「…ねぇ、アレック」 「ん?」 「アレックと僕って…恋人って、いうの…?」 「違うの?」 ちょっと呆れて笑った彼は、僕の手を強く握った。 「ウィル、君は僕の大切な恋人、だよ」 「………」 普段アレックは、エッチの時は別として、わかりやすく僕にデレデレしたりしない。その代わり、愛してるとか、好きとか、かわいいとか、その言葉が必要な時に、とてもストレートに伝えてくれる。 それが、僕はとても嬉しいんだって、改めて気付いた。 「…アレック、僕…」 「幸せ?」 「そう、よくわかるねーーー」 「君はよく、幸せって言ってくれる、そうすると、僕ももっと幸せだって思える」 「…」 「独りよがりじゃないんだって」 「…うん」 「だから、ずっと…君に幸せだって思っててほしい」 「幸せ」 「…着いた」 車を静かに停めて、先生がこちらに体を向けた。 僕の風邪のせいで、いつもより一緒に過ごした時間はずっと短かった。 僕らはいつものように腕を伸ばして、センターコンソールの上で窮屈に抱き締め合った。 「アレック、ごめんね…」 「いいから、ちゃんと食べて、薬飲んで、しっかり寝るんだよ」 「うん」 大きな手が、僕の頭をそっと撫でた。 先生はいつだって僕の保護者で、僕が大人になっても変わらなかった。 「明日は…」 「もし体調がよくなってたら、教えて、よくなくてもだけど…大丈夫なら、エンジェル駅の辺りに迎えに来るから」 「わかった」 「とりあえず、待ち合わせは昼の12時にしとこう」 「うん、早く寝る」 「じゃあ…」 体を離した先生は、すごく切ない顔で僕を覗いていて、こんな顔も初めて見る。頬に触れる指の優しさに、ようやく、どれだけ大切に思われているかを知った僕は、胸が詰まった。 「…うっかり風邪もらえないから、キスはお預け」 そう言って先生は、僕の額に泣きたくなるほど柔らかな口付けをした。 「おやすみ、ウィル」 「おやすみ、アレック」 車を降りると、肌を刺す寒さに慌てて玄関に駆けた。そして、彼の車が角を曲がるのを見届ける前に、家に入った。 そしてこの夜。 僕はたっぷりの夕食に加えてチキンスープを作ってもらい、フルーツをたくさん食べて、ジンジャーティーを飲んで、先生にもらった薬を飲んで早めにベッドに入った。 先生に「薬飲んだよ、おやすみ」と送ると、すぐにオッケー的なスタンプと、「おやすみ xxx」が返ってきた。 翌朝、僕の体調は、ほぼ全快といっていいほどスッキリしていた。たぶん、先生の薬が効いたんだと思う。

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