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ch.31
待ちわびたデートの土曜日。
空気も凍りそうな冷たい日だけど、珍しく雲の合間に薄水色の青空が覗いていた。約束の12時、エンジェル駅の東の路地に、既に先生は車を停めて待っていた。
車に乗り込んだ僕に、先生は「具合はどう?」と心配な顔をした。朝から何度か「本当に大丈夫」とメッセージをしたけど、いまいち信じられてないらしい。
「診察してみてよ」と口を開くと、先生は「僕は内科医じゃないしここじゃ暗くて喉が見えない」とそっけなく僕を突き放して、なんだと口を閉じたらキスをされた。
不意打ちに呆気に取られていると、彼は「行こう」とエンジンをかけたからちょっとムカついた。
「…待って、アレック、今の何…?」
「キス」
「酷いよ」
「どうして?」
「なんか、盗んだり、掠め取ったりするような感じ…すごくずるい」
「…うん、ごめん」
こちらに身を乗り出した先生は、今日はいつもよりざっくり髪をまとめて、前髪の毛束が多めに額にかかった、年齢相応の素敵なお兄さんだった。けれど、着ている薄手の黒いニットもジーンズも、履き慣れた味のあるブーツもちゃんと金がかかっていて、カジュアルだけどちゃんとスマートで、彼に僕は不釣り合いな気がした。
そんなことを考えながら見つめていると、こちらに伸びた腕に少し強引に抱き寄せられて、僕は彼の首を抱いて、飢えた唇で待ち望んだキスをした。交互に舌を突っ込んで、相手の味や知った形を確かめながら、擦り合う粘膜で欲情をそそり、夜が待ち遠しいと結んだ舌で囁いて、離した唇を繋ぐ唾液を啜った。
「…機嫌直った?」
「早くいこ」
先生は「うん」と満足そうに笑みを深めると、車を発進させた。
いつものルートを逆に辿りながら、車は西へ向かっていた。
「どこ行きたい?」
のんびり聞かれたけど、一番困る質問だった。
右手をステアリングにかけ、左手を僕と繋いだ先生は、いつものドライブのようにリラックスして前を見つめている。
「アレックは、なんか考えてる?」
「それなりに、でも君が映画観たいとか、博物館とか美術館行きたいとか、そういう希望があったら優先したいなって」
「…何も、考えてなかった、一緒にいられるならなんだっていいやって」
「そか、じゃあ僕のプラン」
「うん」
「君は病み上がりだからあまり外や人混みに連れてきたくない…のはやまやまだけど、ちょっと買い物したい、その後、夕食の買い出しに行って、うちでディナー、夜はまったりイチャイチャして、セックスして寝る」
「買い物?何買うの?」
「服?とか?」
「とかって」
「なんか大きいショッピングセンターをブラブラしたいだけ、みたいな?」
「あぁ、結構楽しいね」
「ほんとは水族館行ってもいいかなって思ったんだけどーーー」
「ロンドン水族館?行ったことない、行きたい」
「結構狭くてさ、通路とか、休日だと人も増えるからやめとこうかなって」
「そっか、じゃあアレックの計画通りでいいよ」
「わかった、じゃあウェストフィールドでいい?」
ウェストフィールドはロンドンの西にあるショッピングモールで、このあたりでは最大級の規模を誇る。ロンドンの東側が主な生活圏の僕は、まだ行ったことがなかった。
「いい!行きたかった、ポケモンセンターがある」
「ランチはどうする?フードコートでもいいしーーー」
「アレックの好きなお店…とかあったら行ってみたい」
「わかった」
車はしばらく幹線道路を西に向かい、パディントンを過ぎてベイズウォーターの辺りに来た所で、駐車場に入った。
先生はこの辺りはムスリム系の移民街があって、中東系のお店が多いことなどを教えてくれながら、僕をこじんまりとしたカフェに連れて行った。店構えも内装も飾り気がなく、よくある地元民御用達の店にしか見えない。中に入ると左手にサブウェイみたいな食材のディスプレイとレジがあって、奥にテーブル席が6つある。
慣れたように左手の真ん中のテーブルについた先生は、僕に「好きなの食べて」とにこにこメニューをくれた。
「ここって中東系のお店?」
「違うよ、フツーのサンドイッチ屋、経営してるのはイタリア系の人」
「てっきり」
「ここ、こういうお店には珍しく土曜もやってんの」
メニューを開くと、彼が「美味しいし、なんでもあるから便利でさ」と言う通りの店らしい。ブレックファストからオムレツ、サラダ、ピザ、ハンバーガー、パスタに加えて定番のローストビーフやチキン、フィッシュ&チップスもある。サンドイッチがないのは、ディスプレイの所で頼んでテイクアウトが主なんだろう。
そして、先生はバンガーズ&マッシュを頼んで、僕はスモークサーモンのブレックファストを頼んだ。本当は先生と同じ物を食べたかったけど、彼が普段よく食べると言うからそれにした。
「…なんか、新鮮」
ペリエを瓶から飲みながら、先生は目を細めた。
「何が?」
僕は、オレンジジュースを飲んだ。
「君の私服姿…ウィンター・ワンダーランドぶり?普段は制服だからさ」
「…その前は、夏のピクニックの時くらいだね」
「制服って子供感が強まる」
「そうだね、手を出しちゃダメだよね」
先生は顔をしかめたけど、オーダーした皿が並べられて店員に軽く会釈をした。
彼が「ん」とソーセージをまるまる1本くれたから、僕もサーモンとアボカドを半分ずつあげた。
「…アレックは、今日も素敵だね」
ソーセージは、ジューシーで美味しい。
「僕のこと、素敵だって思ってるの?」
彼は楽しそうに僕を見つめた。
「 …よくない?」
「光栄」
「なんか僕、恥ずかしい…」
「何が?」
「アレックの隣にファロンさんみたいな綺麗な人がいたら、きっとみんな振り返る、けど僕、そんな気合い入れてお洒落してないし…不釣り合いだーーー」
「別に変じゃないし、今時のワカモノっぽい」
「アレックだって若いほうでしょ!?」
「ってもティーン的なワカモノじゃないし…君って、そんな卑屈なタイプだった?」
彼がフォークですくったマッシュポテトを僕の口元に差し出したから、食べた。グレービーがかかっていて、とても美味しい。
「そうじゃないけど…なんか僕、アレックと並んだらコドモっぽいなって…」
フォークに3つマッシュルームを刺して、先生の口に入れた。
「あんまそういうこと言うと、お仕置きする」
「…先生のお仕置きは、好き」
「ふさわしいかそうじゃないかは、僕が決めることだし…」
「?」
「君は今、サナギから出てきたばかりの蝶だよ」
「…何、いきなりーーー」
「これからどんどん素敵になるって、僕は知ってる」
彼は涼しく目を細めると、すっと微笑んだ口元にコーヒーのマグを運んだ。
ふたりにしかわからない冗談で呆れたり、小さく笑ったり、意味深な例えで少し照れたりなんかするだけで楽しい。今更ながら、こういうのが本当のデートなんだと思うと、なんだかとてもドキドキした。
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