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ch.38
シャワーを終えて、ふたりでダイニングを片付けた後で、僕は先生のフラットを一通り覗いてみた。例えば、クローゼットにはまだ見たことのないスーツやシャツがあることや、リビングのTV台には埃を被ったPS4があることや、脱衣所にストックされた洗剤や歯磨き粉やワックスやローションやトニックやシャンプーといった消耗品の種類や、大人の玩具の隠し場所や、専門的な本が詰まった本棚が4つ並ぶ書斎なんかを知った僕は、3週間前に比べたらかなり彼の部屋に馴染めた気がして、ひとつひとつのどれもが小さな事柄だとしても、とても満たされた。
そして15時を過ぎた頃。フラットを出た僕らは、地下の駐車場には向かわず外に向かった。マンションを一歩出ると、きんとした冷気に晒されて夢見心地の頭が覚めた。
先生は僕のマフラーを整えてくれると、「パブ行こ」と僕の左手を取って手を繋いだ。歩き出した彼に肩を並べると、彼は繋いだ手をコートのポケットに入れた。よくある、憧れのシチュエーションだとドキドキしたけど、僕らは手袋をしていなくて、そうでもしなきゃ手がかじかんでしまうから、残った右手は自分のポケットに突っ込んだ。
テムズ河沿いの道を西へ向かうと、対岸の景色が薄靄に霞んでいた。その後ろ、遠くの街並みは白くぼやけて、眩い曇り空と溶け合っている。微かに柔らかな湿気を含んだ大気は、春がすぐそこまで来ていると教えてくれていた。
5分も歩くと、道沿いのウィンドミルというパブに着いた。
「ここ、よく来るの?」
「うん、行きつけ」
先生はにこりとすると、ポケットの中で繋いでいた手を解いてパブのドアを開けた。
日曜の午後のパブは、半分ほどの人の入りだった。
慣れたように中に入った先生は、馴染みらしい客の何人かに軽く挨拶をしながらカウンターに立った。
「アレック、昼に珍しいね」
気さくそうな女性の店員が先生の前に来て、「いつものでいい?」とパイントグラスを取った。
「やあデミ、運転あるからレモネードで…君は?」
僕を振り返った笑顔は、特に何かを示唆してはいない。
18歳になった僕は今、こういう場でアルコールを飲んでも誰にも咎められることはなかった。
「…じゃあ、ロンドン・プライド、ハーフで」
「あー、ごめんなさい、ID見せてもらえますか?」
デミという店員は渋い顔で笑い、先生に「彼、友達?」と不思議そうな顔を向けた。未成年者への酒の提供は違法だから、こういうチェックは仕方ない。
学生証を見せると、慎重にチェックした彼女は「オッケー」と笑い、グラスにエールを注ぎ始めた。
「医大志望の学生だよ、僕がメンターをしてる」
コートを脱いだ先生は、爽やかな笑顔でそれっぽい嘘をついた。
「へぇ、そんなことしてたんだ、休日まで忙しいねぇ」
僕らの前にグラスとレモネードの瓶を置いた彼女は、「ごゆっくりどーぞ」と笑った。
カウンターから離れた奥のテーブルについた僕らは、先生はチーズバーガー、僕は彼がここでよく食べるというチーズオムレツとミックスグリルのブレックファストを頼み、シーザーサラダを一緒につついた。
真面目な顔で食事をしながら、僕らは声をひそめて今後の話をした。泊まりが続くのはまずいからせいぜい月に1度にして、来月は水族館とマーケットに行こうという計画をざっくり立てて、とりあえずは金曜日にと笑った。
そして、先生はコーヒー、僕はカフェオレを頼んでお茶をした後で、彼は「ちゃんと勉強すれば、君なら大丈夫」と偉そうな感じで頷いてみせると、「じゃあ、送ってくよ」と席を立った。
* * *
家に送られる車の中で、彼も僕も、特に言葉を交わさなかった。
繋いだ指先を滑らせたり、絡ませたり、軽く立てた爪でくすぐったりするだけでよかったし、それで足りなくなったら、信号待ちの間にキスをした。
そして今日も、口づけで別れを惜しんで、「じゃあね」「またね」と指を離して先生と患者に戻った。
いつものように車を見送り、ふわふわと浮足立つ胸ににやけてしまう顔をなんとか固めて、家に入った。
「ただいまー」
「おかえり」と僕を迎えた母さんの顔が、なんだか固かった。
「…ねえ、ウィル?」
僕の前に立ったローラが、スマホのディスプレイを突き出した。
「…これ、どういうこと?」
そこには、アレックと僕が“仲睦まじく”買い物をしてる写真が画面いっぱいに表示されていた。
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