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ch.39

天国から地獄とは、こういうことを言うんだろう。 心臓はバクバクしてるのに、血の気が引いていくのがわかった。僕のジョセイキを見つけた時以来のパニックで、あの時みたいに思考は完全に停止していた。 僕には、先生みたいにスマートに切り抜けられるほどの経験や知識や度胸とか何かそういったモノはなく、ただ、平静を保つのが最適だということしかわからなかった。取り乱したら、負ける。 「…別に、なんでもない」 たぶん僕は、精一杯の無表情でそう答えて、ローラを押しのけて自室に篭った。 そして、半泣きで先生にメッセージを送った。 震える手でなんとか「家族にばれた」と送ると、ほどなく『正直に言って』と返信があった。「そんなことできない」と入力している間に、『大丈夫』と来て、『愛してる』と続いた。 何も大丈夫に思えなかったけど、僕は、『愛してる』の一言だけで、幾分気分がマシになった。 深呼吸をして、目を閉じた。 こうなったら、僕が先生を守るしかない。絶対に、何がなんでも負けるわけには行かない。 目を開けた時にはなんとか冷静になって、僕ら以外の全てを敵に回したっていい、それくらいの気持ちになっていた。 家族が全員揃った夕食のテーブルは、静かなものだった。誰一人としてろくに言葉を発さず、僕以外の誰もが僕を険しい目で見ているのがわかって、くじけそうになる。それでも僕は、平静を装って、何事もなかったかのように振る舞った。 そして、それぞれが食事を終えた頃合い、気まずい沈黙を破ったのは母さんだった。 「…ウィル、ローラのあの写真はどういうことなの…?」 その、動揺を極力抑えたような声に、少し安堵した。見回すと、父さんは険しい曇り顔で、母さんは困惑顔で、ローラは引いたような顔で僕を見ていた。 「…ローラ、その写真どっから?」 「カイリーが昨日、ウェストフィールドで見たって、送ってきた…」 カイリーはローラとよくつるんでる同級生で、うちにもたまに遊びに来る。やられたと思ったけど、油断してた自分が悪いと苦い気持ちを飲み込んだ。 例の写真は、僕とアレックが並んで顔を寄せ合い、店頭のシャツを見ていた。手なんか繋いでなくても、僕らの表情を見れば、誰がどう見たって親密なふたりに見えて、言い逃れのしようがなかった。 「…僕、先生と、付き合ってる」 確証のない疑惑が事実だと明らかになった時、初めて人はちゃんとショックを受けるんだろう。 家族がはっと固まって、居心地の悪い空気がみるみる重苦しくなるのがわかった。 「…ごめん、嘘、ついてた…」 みんな、貝みたいに押し黙っている。 「…カノジョいるって、嘘だよ…見ての通り、カノジョじゃない…」 お茶で喉を潤して、ゆっくり深呼吸した。 「先生と付き合ってるって、言えなかったんだ…ごめんなさい」 「どうして、そんなこと…」 ようやく声を出したのは、母さんだった。 「僕が好きになったから、僕からアプローチしたんだ」 「…先生は悪くないから」 「…でも、父さんや母さんが知ったら、先生を非難して騒ぎ立てたり、もう先生のとこ行くなって言うかもしれないって思うと、怖くて言えなかった…」 「……だから、カノジョできたって嘘ついた」 「…本当は、大学に合格したら先生とのこと打ち明けようと思ってたんだ…進学が確定した後のほうがいいだろうって…」 「心配なのはわかってる、年齢は問題ないはずだ、合意だよ、彼にレイプなんてされてないーーー」 「ウィル」 僕の言葉に場が凍りついて、父さんが低い声で僕を止めた。 「いつから、そう、なったんだ…?」 「カノジョできたって言った日…クリニックに泊まったのは嘘だよ、先生んちだった…」 父さんは俯いて、母さんは眉間に皺を寄せて、ローラは宇宙人でも見るように僕を見ていた。 「…僕はまだ子供だから、いいように遊ばれてるとか、思ってるんでしょ…?」 「…信じられないかもしれないけど、僕、本当に幸せなんだ…」 「僕なら好きなだけ非難していいし、罰も受けるよ、だから頼むから、先生と会うなって言うとか、裁判沙汰にするとか、メディアにネタ売って騒ぐとか、そういうことだけはしないで…」 「…僕には、先生が必要なんだ…」 父さんと母さんは顔を見合わせると、重たいため息を絞り出した。 「少し、考えさせてくれ…」 父さんが唸るように言った。 「罰だなんて言い方はやめてちょうだい」 母さんは額を抑えた。 「…ごめんなさい」 それ以上言うことはなかったから、席を立って、部屋に戻った。 ドアを閉めて鍵をかけたら、気が抜けてその場にへたり込んでしまった。そして、家族に言ったことを思い返しているうちに、改めて先生が好きでたまらないんだって気付いた時には泣いていて、後から後から涙が溢れてきて、どうしようもなくなって先生に電話した。 2コールもしないうちに通話がオンになり、聞きたい声が聞こえた。 『ウィル?』 「…せんせ…?」 『…泣かないで、大丈夫?』 嗚咽に早速気づいた彼は、柔らかな声で僕をなだめた。 「…だいじょぶ、アレックが、好きって言いたいだけーーー」 『うん…あったことを、話して』 「…アレック、忙しいでしょーーー」 『大丈夫…それで、どうしてバレたの?』 「ローラの…妹の友達がっ、昨日、ウェストフィールドにいてっ、僕らの写真撮ってた…」 『そうか…それで、家族に話したの?』 「…うん、今っ…」 『落ち着いて、教えて…』 僕は頷いて、たくさん深呼吸をして息を落ち着けてから、家族に話したことを全て先生に伝えた。 最後まで黙って聞いていた彼は、静かに『わかった』と呟いて、『大丈夫、心配しなくてもいい』と意外なほどのんきに聞こえる声で言った。 「…そう、思う?」 『もちろん』 「…」 『君はもう子供じゃない、ご両親だってわかってるはずだーーー』 「わからないよ、そんなのーーー」 『いいから、今日はゆっくり休んで…』 「…」 『ウィル?』 「…うん」 『愛してる』 「僕も…」 答えたら、また、涙がぶわっと吹き出した。 『…近いうちに、美味しいタイ料理の店に行こう』 「…うん」 『それで、また、腰が立たなくなるまでセックスしよう』 「…する」 『愛してるって言ってーーー』 「…愛してるっ」 口にしてみると、めちゃくちゃだった胸が落ち着いて、前を向ける気がした。 『…今すぐそこに行きたい』 「…っ」 『何かあったら、すぐに教えて』 「…うん、わかった…」 『じゃあ、切るよ…』 「…うん」 『おやすみ、ウィル』 「…おやすみ、アレック」 通話が切れると、やっぱり心細くてたまらなくなって、僕は布団を被った。考えなきゃいけないことや、やらなきゃいけないことがたくさんある気がしたけど、酷い疲労と倦怠感を覚えて、そのまま眠ってしまった。

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