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第3話 栄光の通路
アルキバはたまたま、新人剣闘士が円形闘技場の控え室に入っていくのを見かけた。
試合まで一時間もあるのに。
放っておいても問題はないが、なんとなくお節介を焼いてみる気になった。
追って控え室の入り口をくぐると、新人は長椅子に腰をかけ、何度も深呼吸をしていた。
赤毛に白くも黒くもない中間色の肌。アルキバと同じ剣闘士の格好をしている。
すなわち褌 を締め、腰布を巻き、腕と膝に防御布を巻き付けていた。上半身は裸だ。
新人の全身は小刻みに震えていた。おそらく、今日が初陣。
怖くないわけはないだろう。
試合中の死の七割が初戦と言われている。つまり初陣は最も死にやすい。
「よう、カチコチだな」
アルキバが声を掛けると、びくりと肩を揺らして顔を上げた。弾かれたように立ち上がる。
「アルキバさんっ!?あ、あの、そのっ!ええと、俺はっ」
びしりと背筋を伸ばしたものの、緊張のあまり声のうわずる青年の肩を、アルキバはぽんと叩いた。
「見りゃ分かる、第一試合に出る新人だろ。名前は?」
「コルベルと言います!」
「コルベル君ね。試合は今日が初めてってとこか」
つばきを飲み込み、コルベルは大きくうなずいた。
「やっぱりな。今日は俺も出るぜ。もちろん最終試合にな。人気者だからさ」
試合に出る順番は、人気の逆順だった。一番人気の剣闘士は最終試合に、一番不人気の剣闘士は第一試合に。おどけて言ったつもりだったが、返ってきたのは生真面目な言葉だった。
「はい、知っています!同じ日に闘技場に出られるなんて光栄です!」
アルキバは苦笑を浮かべる。
「ありがとな、俺も光栄だ。でもお前の出番も一時間先だろ?この部屋に入るのはまだ早いんじゃないか」
「はい、でも、いてもたってもいられなくて……」
コルベルは控室から闘技場に至る通路――通称、栄光の通路――をちらりと見て、視線を落とした。その通路の向こう側に、目のくらむ大舞台と大歓声、そして敵が待ち構えている。
そのあどけなさを残す表情に、アルキバは口の端を上げる。長椅子に腰かけた。コルベルにもうながす。
「座れよ」
「えっ。は、はい!」
コルベルはおずおずと座り直した。
「俺も最初の試合の時はそうだったぜ。怖くて怖くて全身汗びっしょりで震えてたもんさ」
コルベルは驚いてアルキバの顔をまじまじと見つめた。人気剣闘士は居心地悪そうに頭をかいた。
「そう見るなよ、俺だって人間だよ、お前と同じ。いや奴隷と言うべきかな。お前と同じ、奴隷だ」
「そんな!あなたはもはや国の英雄です。自由民はもちろん、貴族だってあなたを賞賛します。あなたのことを奴隷だなんて、誰が感じているでしょう」
そう言われてアルキバは、どこか自嘲的な笑みを浮かべた。腕を組み、仰ぐように天井を見上げた。
「もはや奴隷ではない、ねえ。つまりコルベル君は一旗上げたくてこの世界に入って来たんだな」
「はい。俺、もとは田舎の農奴だったんです。でもひどい地主で……。夜逃げしました」
青く輝く南洋に面した王国ナバハイルは、交易と自然の恵みに潤う豊かな国だ。
だが風光明媚な土地柄にそぐわぬ、厳格な奴隷制度を敷く国でもあった。
自由民と奴隷。
両者ははっきりと区別されている。その起源は、ナバハイル王国建国の昔へとさかのぼる。
五百年前に東方からやってきた赤眼の蛮族が、「森の国」を焼いた。
白い肌の「森の民」は、森を追われ南に下り、「海の国」へとやってきた。
「森の民」は浅黒い肌の「海の民」からこの地を奪い、征服した。
以降、土着の「海の民」は、征服者たる「森の民」の奴隷となった。
肌の色が違うと言っても、五百年の間に進んだ混血により、自由民と奴隷の外見的差異は失われつつあったが。
自由民が所有の奴隷を増やす方法として、女奴隷に自分の子種で子を産ませる、という方法が一般的であるためだ。また、時に自由民の寵愛を受けた女奴隷が妻になることもあり、その子供は自由民となった。
結果、現在では、浅黒い自由民もいれば、色白の奴隷もいた。
もっとも王侯貴族、特に王族は混血を拒み、厳密なる純血を保った。
古 の「森の民」の姿そのままの、金髪碧眼と純白の肌は、長い年月を超え王家の血筋に脈々と受け継がれていた。
コルベルは憎憎しげに言葉をつなぐ。
「本当にひどい地主でした、飯は日に数個の芋で、それで朝から晩まで働かされて、鞭を打たれて。近頃、奴隷の扱いがひどくなってきたと父さんが言ってました」
「ああ、その話は聞くな。地方じゃ農奴や鉱山奴隷の反乱が頻発してるって。王都では廃棄奴隷の浮浪者がどんどん増えている」
ここ最近、急激に税が高騰してそのしわ寄せが全部、奴隷に来ていた。
片や、こうして吸い上げた税で王侯貴族は贅を極めているという。
「農奴なんてまるで家畜だ。俺は剣闘士になるって決めたんです。アルキバさんみたいな人気剣闘士になって、金持ちになって、家族を迎えに行くんです。俺が家族を幸せにしてやるんだ」
剣闘士は奴隷職の中で唯一、自由民以上に豊かになる可能性がある職だった。
一握りの人気剣闘士になれば、試合後の観客からのチップが山を成す。さらに金持ちのパトロンたちからも金品を貢がせることができる。
引退まで生き残り、恩赦として解放奴隷の地位を得れば、あとは現役時代に築いた財産で遊んで暮らせるのだ。
力強く宣言した青年の頭を、アルキバは大きな手でなでた。
「おう、なれるさ。お前なら、俺のように」
「ありがとうございます!」
コルベルは目を輝かせた。その目尻には涙すら浮かんでいた。まるで神から力を授けられたかのように。
アルキバは穏やかに微笑むと、腰を上げた。
「じゃあ、がんばれよ。とにかく、肩の力を抜け。それから観衆に圧倒されるな。落ち着くんだぞ」
「はい!」
威勢良くコルベルは立ち上がり、控え室から出て行く男に頭を下げた。もうその体は震えてはいなかった。
◇ ◇ ◇
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