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第12話 魂の傷跡

「まさか、リチェル王子だったとはねえ」  翌朝。陽光の差し込む室内でリチェルの寝汗を布でぬぐいながら、ロワはしみじみとつぶやいた。アルキバはうなずく。 「内密に頼む」 「ああ。第三王子リチェル殿下……。隠し子王子達に殺されてるだのの噂は、根も葉もないわけじゃなかったな。実際、兄達にしょっちゅう命を狙われてるんだろう」 「隠し子王子」というのは第一王子ジルソンと第二王子オルワードを揶揄する市井での呼び名である。  前王妃ユリアーナの人気は、国王に匹敵する程だった。遠国の王家から嫁いできたユリアーナは、美しく慈悲深く、精力的に孤児院の慰問活動など行う姿は、国民に感銘を与えた。  ユリアーナにはなかなか子が出来なかったが、輿入れから七年目にしてようやくリチェルが生まれたときは、国中が沸いた。  リチェルはその成長を国民に見守られ、国民は皆、リチェルこそ次期国王だと思っていた。  一方で、ユリアーナ亡き後に登場した元愛人の後妻ミランダスは、まったく人気がなかった。  位の高い貴族の出で顔は美しかったが、毎日城で贅沢三昧、慰問活動など一度もしたことはない。  しかも隠し子二人を第一王子、第二王子の地位に据えた。  これは法律破りの蛮行だった。反対の声は大きかったが、国王はすっかり後妻の尻に敷かれており、王位継承順位の変更を許してしまった。隠し子ジルソンを次期国王とする立太子式は、一週間に渡って贅を尽くし派手に催された。  そして王太子から第三王子に転落したリチェルは、まるで隠蔽されるかのように、公の舞台から姿を消した。  アルキバは複雑な表情を浮かべる。 「リチェルは護衛騎士のことを唯一の味方と思っていたみたいだ」 「でもその唯一の味方にも裏切られた、か。厳しい状況だねぇ」 「なんでそんな状況なのに、こっそり剣闘士食いなんてしてんだこいつは」 「そりゃまあ、若いちんこだからさ」  ククっ、とロワが下卑た笑いを浮かべる。 「そんなことしてる場合じゃねえだろ。早く兄貴たちから権力を奪い返せばいい。兄貴二人を返り討ちにしてぶっ殺せば済む話だ」 「それが出来ないから、刹那の快楽に溺れちまってんだろ。こいつはまだ十八、青二才で、しかもひとりぼっちなんだろ?」  アルキバは口をつぐんだ。  剣闘士たちを閨に呼びつける行為は、到底許せるものではない。しかしリチェルの複雑すぎる状況を知ったら、怒りは引っ込んでしまった。  怒りどころか反省が頭をもたげる。体力も体格も大きな差のある相手に酷いことをした。闘いを生業とする剣闘士として、最も恥ずべき行いではないか。 「リチェルはいつ目覚める?」 「もう目覚めてもいい頃なんだがなあ。損傷した内蔵も皮膚も綺麗に治してやったぜ」 「そうか」  言って小さなため息をつく。ロワは口角を上げた。 「後悔してんだろ?目覚めたらちゃんと、話すことだ」 「話すって何をだよ……」 「それくらい自分で考えろ、大人だろう」  アルキバは舌打ちをする。ロワは腹を抱えて笑い出した。 「ははっ、お前は一体誰だ、ここにいるのは本当にアルキバなのか?恋ってのは人のネジを何本もぶっこ抜くもんだな」 「うるせえっ」  ひとしきり笑った後、ロワはふと真顔になった。 「そうだ一つ、言い忘れていた。妙なところがあったんだ、この王子の体のことだが」 「なんだ?」 「この体、何度も『大怪我』をして何度も治癒魔術を施された跡がある」 「は?」 「肉体を治癒しても、精神的苦痛が強い傷は魂に傷痕(きずあと)として残る。大病や大怪我、それから……虐待や陵辱による傷はな」 「魂の傷痕?」 「ああ、そこから傷病歴をたどることができるわけだが、ひどいぜこれは。魂に刻まれるレベルの傷の履歴だらけだ。こんな傷だらけの魂は、初めて見た」  アルキバの顔が強張る。 「どういうことだそれは」  ロワは肩をすくめる。 「さあねえ。どこもかしこも多重の外傷歴があるが、特にひどいのは肛門だ。とにかく、一人の人間に耐えられる量の傷じゃないぜ、普通は。廃人になってないのが奇跡だ」  アルキバは二の句が継げなかった。  腹の底をぞわぞわと虫が這いずるような胸糞悪さがせり上がって来た。  ロワが考え込みながら呟く。 「まあここまで異常なのは大抵、祖先の(カルマ)絡み……」  その時、リチェルが身動きをした。二人は、はっとしてリチェルを見下ろす。  小さなうめき声を上げながら、その美しい眉間にしわがよる。瞼がうっすらと開かれる。  ロワはぽん、とアルキバの肩に手を置いた。 「じゃ、俺は外すから」 「おい!お前医者だろ、ちゃんと最後まで面倒みろ!」 「もう治療は終わった、あとはお二人でごゆるりと」 「まっ……」  にやけた顔を置き土産に、ロワはドアの向こうに去ってしまった。 「クソっ!」  アルキバがそのドアに悪態をついたとき。 「アル……キバ?」  背後から当惑した声が降ってきて、アルキバは硬直する。  恐る恐る振り向くと、リチェルがベッドの上で上体を起こし、こちらを見ていた。  ――リチェルに名を呼ばれた。  自分でも滑稽なほど、それだけの事実を嬉しく思った。  狼狽を押し隠し、アルキバは自分に喝を入れ、一瞬で態度をつくろった。大舞台で勝ち抜いてきた剣闘士、緊張をねじ伏せ自分も観客も騙すのは得意である。  ごく冷静な声と表情で言った。 「起きたか。痛みはないか?ここは俺の友人のロワって魔術師の家だ」  リチェルは自分の腹をさすり、驚きの声を漏らす。 「傷が消えている」 「ロワが治してくれた」 「その者に礼を言わねば……。待て、まさか、アルキバが私をここまで運んでくれたのか?」 「もちろんそうだ」  リチェルは信じられない、という顔でアルキバを凝視した。 「なぜ……?」 「なぜって言われてもな」  リチェルはまだ困惑した様子で尋ねる。 「一体、どういう状況だったのか、教えてもらえるだろうか」 「護衛はあんたを刺した後、俺に罪を被せて殺そうとした。俺は護衛を返り討ちにして、あんたを抱えてここまで逃げてきた」  リチェルは息を呑み、しばし沈黙した。 「……ヴィルターを殺したのか」 「ああ」 「そうか……」 「すまん」  アルキバは頭を下げた。  リチェルは生気の宿らない顔で、ゆっくりと首を横に振った。そして納得したようにうなずく。 「いいや、謝らねばならないのは私だ。ひどい目に合わせたな、殺人の濡れ衣を着せられるところだったなんて。我々の事情にそなたを巻き込んですまなかった。私がそなたのヴィルターへの正当防衛を証言しよう」 「助かるよ。王子様が一晩戻って来なくて、城は大騒ぎなんじゃないか?」 「私が無断で外泊することはよくある。誰も心配などしていない」 「とんだ放蕩息子だな」 「そうだな」  リチェルは自嘲気味に言うと、毛布を外し、ベッドから立ち上がった。 「城に帰らねば」  脇をすり抜けようとしたリチェルの腕を、アルキバはつい掴んでしまった。 「待て!」 「なん……だ」  リチェルがアルキバを見上げる。その瞳が明らかに恐怖に揺れていて、アルキバは慌てて腕を離した。 「か、勘違いするな!昨日は悪かった。俺が大人気なかった。本当に……悪かった」  リチェルが驚いた様子でアルキバを見る。 「ごめんな。それだけ謝りたかった」  リチェルはうつむいた。そしてポツリ、と呟く。 「やはり優しいな、アルキバは」 「は?」  予想外のことを言われてアルキバの目が点になる。リチェルは気まずそうに髪をかき上げた。 「罰を下してくれてありがとう。いや、罰も未遂だったな。ちゃんと罰を受けろと言われるのかと思ったのに、まさか謝られるなんて」  アルキバは苦笑する。 「いや、俺は地獄の番人じゃないから……」  あんな風に絶叫する相手をどうこうすることなど、できない。  しかしどうやら罰と思われているらしい。まあアルキバ自身がそのように言ったのだが、「仕置き」だの「罰」だのと。なぜか複雑な心地がした。 「恥ずべきことをしている自覚はあったんだ。でも止められなかった」 「まあ、金と権力を持つあんたに魔が差すのも分からなくはない。剣闘士は所詮は奴隷だからな。反省して、二度とやらなければもうそれでいい」 「奴隷……。亡き母上は、この国の奴隷制度は野蛮だといつも言っていた。世の中には奴隷のない国が沢山あるのに、と。幼い頃、私もその通りだと思っていたはずなのに。いつの間にか私はこれ程、野蛮な人間に成り下がっていたんだな……」  アルキバの口元が緩む。 「案外、真面目なんだな。立派な王子様じゃないか」  リチェルの顔ばせに、すっと憂いが差す。 「まさか、私はただの落ちぶれた、奴隷以下の何かだ」 「そいつは自虐が過ぎるんじゃないか?」  言いながら、アルキバの脳裏に先ほどロワに聞いた「傷痕」の話がよみがえり、苦いものがこみあげた。 「もう投資主はやめる、二度と剣闘士の尊厳を傷つけることはしないと誓う」 「ああ、あんなこと続けるもんじゃない、あんた自身の為にもな。いままで俺以外に狼藉者がいなかったことが奇跡だ」  アルキバは不愉快な気分でヴィルターの顔を思い浮かべる。  剣闘士と細身の王子を二人きりにして閉じ込めて、ヴィルターは毎度、期待をしていたことだろう。いつか王子を犯そうとする剣闘士が現れるはずだ、と。それに乗じて王子を殺せると。   ところで、とアルキバは言葉を続ける。 「あんたの兄貴たちのことなんだが……」 「なんだ?」   リチェルは無表情にたずねる。底に何かを沈めて隠す、ひんやりとした「無」がそこにある。 「その、あんたまだ……、やられてんのか?」  リチェルは静かに首を振った。 「いいや。一年前までの話だ。今は何もない」 「そう……か」  二人の間にしじまが降りる。 「では、世話になった」  言って、リチェルは寝室を出た。  隣室のソファに寝そべっていたロワが、「おっ」と顔を上げる。 「仲直りはしたかい?」  リチェルはその傍らに近づいた。 「そなたがロワ殿か。命を助けてくれてありがとう、礼ははずむ。今は持ち合わせがないが、後日必ず。金はいくらでも出そう」  ロワは手を伸ばすと、リチェルの腕をとりぐっと引き寄せた。 「!?」  ロワは自らの隣にリチェルを座らせ、その両手を握って鼻先まで顔を寄せた。 「いや金よりも体で払ってもらえたらありがたい。剣闘士食いまくってんだって?いいねえ若いちんこは元気で。俺は入れられるのもイケる口なんだ。たまには魔術師なんてどうだい?大丈夫こう見えて体は鍛えてるんだ、ローブの下はそこそこだぜ。そりゃあ剣闘士ほどとはいかないが」  狼狽するリチェルの目線が、ふとロワの背後に向けられる。口をぱくぱくさせた。 「あ、あの、後ろ……」  ロワの背後から、アルキバがその首に腕を回し、締め上げた。 「うぐえっ」 「この色狂い魔術師が!」 「し、しぬ……」  ぐりぐりと力強く締められて、ロワは手足をじたばたさせ白目を剥いている。 「アルキバやめてっ!」  リチェルの一言でアルキバが腕を離す。その憤怒の眼差しはそのままだったが。  ロワがべろを出して首をさすった。 「はあ助かった、地獄の門が見えた。本気で殺しにかかるかね普通?」  アルキバはロワのローブの襟首をつかんで凄む。 「そのまま門の向こうに行っちまえ!なんて見境のない奴なんだてめえは!」  ロワはにやにや笑うと、リチェルに流し目で視線を寄越した。 「こいつ面白いだろ?あんたへの初めての恋にイカレちまってんだ。恋愛できない男がやっと落とされたかと思えば相手は王子だって。ったく何様のつもりだろうね」  アルキバの顔がかっと熱くなる。からかわれたことに、やっと気がついた。ロワのローブから手を離し、顔をそむけてクソっとつぶやく。リチェルは顔を真っ赤にしている。  ロワはくつくつと声をこらえて笑っている。もっと長いこと締めてやればよかった、とアルキバは忌々しく思った。 「まあ城に戻るなら、アルキバが送っていけよ」 「当たり前だ!こんな寝巻き姿の王子を一人で放逐できるか!」 「いや馬さえ貸してもらえれば、一人で戻れる」  リチェルの遠慮がちな申し出をアルキバは言下に拒否した。 「駄目だ。ロワ、ローブと覆面になる布を貸せ」 「はいよ」  ロワは愉快そうに返事をすると、別の部屋から黒いローブを持って来て、リチェルに着せてやった。そして黒い布も渡す。 「何から何まですまない、恩に着る」  リチェルは自らの顔に布を巻き、目から下を隠した。アルキバは腰に剣を差し、壁掛けにつるしてあった灰色のローブを取って羽織る。 「じゃあな。助かったよ、ロワ」 「ああ、最後まで守りきれよ、大事な大事な御方だ」 「分かってる。……なあ、最後って」 「最後は、最後だ」  最後とはどこだ。城なのか。  どうもすっきりしなかった。城に戻したところで、また兄達に命を狙われるだろう。今度こそリチェルは殺されるかもしれない。  アルキバは思い悩みながら、魔術師邸の扉を押し開いた。 ◇ ◇ ◇

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