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第21話 父と子

 本宮殿の会議室。王とその息子王子二人、そして重臣たちが定例会議を行なっていた。  議題は地方で頻発する奴隷反乱への対応について。  縦長の机の端に座すダーリアン三世は、重々しく口を開いた。王の背後の大きなアーチ窓から、陽光が室内に注がれていた。 「原因はやはり三年前の増税であろう。納税者たる自由民たちが奴隷を酷使することで増税に対応しようとするから、奴隷に不満がたまっている。減税をし、二年前に撤廃した奴隷保護法を復活させるべきだ」  王の斜め横に座るジルソンが反発する。 「待って下さい父上。それじゃあ反乱に屈するのと同じことではありませんか!奴隷は反乱すれば自分たちの待遇がよくなると味をしめて、ますます反乱を起こすようになりますよ」 「だが早急に対処せねばならぬ。今はまだ地方の話だが、次は王都で反乱が起きるかもしれない」  今の所、王都で奴隷反乱は起きていない。王都の奴隷は生活周りの雑用奴隷が多く、さほど過重労働ではないから不満は溜まりにくい。  その代わり重税で養えなくなって廃棄された、廃棄奴隷と呼ばれる浮浪者たちが城下町の路地裏に急増していた。  ジルソンは侮るような笑みを浮かべた。 「ですから取締りを強化するんですよ。元来、この国の奴隷は自由すぎる。王都で危険なのは溢れる廃棄奴隷たちです。彼らを早めに処分するべきです」 「殺せ、と?」 「他に方法がないでしょう」 「余はかねてから廃棄奴隷の救済制度を作れと言っているのにそなたが反対をして……」 「甘いんですよ父上は。父上がそんなだから、この国の奴隷が付け上がっているんじゃないですか?」  言ってジルソンは同意を求めるように重臣たちを見回し、重臣たちはこびへつらうように笑い声をあげた。オルワードはうんうんとうなずいて兄への同意を示す。  あからさまに王を軽んずる空気が、場を支配していた。  ジルソンは家臣の取り込みが異様にうまい。気がつけばいつも、会議で父子の意見が対立した時は、息子側の意見が通るようになっていた。  ミランダス王妃の父でありジルソンとオルワードの祖父である、パルティア辺境伯オッド・カニエルの後ろ盾も大きい。  老獪なオッドはダーリアン三世に、孫であるジルソンに早く譲位してもらいたがっている。  オッド・カニエルが臣下たちに賄賂を配って権勢を強めている、という噂もあった。だが土地の痩せたパルティアにそれほどの資金力があるとも思えず、噂の域を出ない。  王は生来の愚直さが災いして、この賢い息子にいいように権力を侵食されるままになっていた。  ただ今日の王はいつもより発言が多かった。  議題が奴隷だからかもしれない。奴隷、すなわち海の民の末裔。王の心に巣食う、海の王の呪いへの恐れが、口を滑らかにさせた。 「ジルソン。この国の人口の半数が奴隷だ。人口の半分が一斉に反乱を起こせば、それはもう内戦だ。内戦状態になれば、停戦中の北の赤眼の蛮族、メギオン王国だって食指を伸ばして来よう。国の崩壊だ。そこまで考えておるか?」  ジルソンは父を哀れむように見て、諭すような口調で言う。 「堂々巡りですね。考えているから、反乱奴隷は厳罰に処すべきと言ってるんですよ」  王がため息をついた時。  奇妙な闖入者たちがやってきた。廊下が何やら騒がしいと思ったら、両開き扉が突然開いた。  扉の向こうには、狂王子リチェルと、リチェル邸の侍女頭クラリスと、田舎に帰ったはずのヴィルターの母親。そして気絶から目が覚め暴れるペリーと、それを取り押さえる超有名剣闘士。  リチェルを中心に据えた、不可解な五人が会議室の中に入ってくる。  後ろ手に縛られたペリーが叫んだ。 「お助けください陛下!リチェル殿下の乱心で捕らえられてしまいました!」 「黙れ誘拐犯。ジルソン殿下と共謀してヴィルターの母親を監禁し、ヴィルターにリチェル殿下の暗殺を依頼しただろ」  アルキバはそう言って、王と二人の兄王子に視線を向けた。にっと笑いながら。困惑する王と、顔面蒼白のジルソンとオルワード。重臣たちはただ呆気に取られている。  王が口を開く。 「そなたは、剣闘士アルキバ……?いやそれよりも、リチェルこれはどういうことだ?」  リチェルは進み出て父王の前に傅いた。クラリスとミセス・ダウネスもその場に伏せる。 「会議中のご無礼、お許し下さい。父上にどうしても急ぎ伝えたいことがあるのです。先ほど、白蘭邸の地下室に監禁されていたヴィルターの母堂を救出いたし……」  がたん、と大きな音を立ててジルソンが立ち上がった。 「リチェル!国王の御前で乱心を晒すなど無礼だぞ!なぜこの部屋にリチェルを入れた、早くここからつまみ出せ!」  ジルソンに睨みつけられた、扉護衛の兵士数名が、焦った様子でリチェルに駆け寄り、両側からその腕を取った。  アルキバが舌打ちと共に一歩踏み出した時。  両腕を取られたリチェルが、きっと顔を上げてダーリアン三世を見据えた。凛と響く声が、突然発せられる。 「陛下!私の話をお聞き下さい!」  場が静まり返った。一瞬誰もが、それがリチェルの声だと分からなかった。それ程不思議な迫力を持つ声だった。兵士らは気圧されたようにリチェルの腕を放す。  ダーリアン三世は、はっとした様子でリチェルを見つめる。リチェルはいつも父王を避けるように俯いていた。そのリチェルがこれほど真っ直ぐ父を見据えたのは、いつぶりだろう。  固まってしまった兵士に、ジルソンは忌々しげに声を荒げる。 「何をしている!王の御前だと言っているではないか、早くリチェルをつまみ出……」 「待て」  と国王はジルソンを制した。 「リチェル、話を聞こう」  ぎり、とジルソンは奥歯を噛み締めた。 「父上!狂人の虚言など聞いてはなりません!」  ダーリアン三世は迷うようにジルソンにその顔を向けた。 「しかし」 「時間の無駄です、すぐに追い出しましょう!」  その時、ちっという舌打ちが大きく響いた。ジルソンは舌打ちの主を睨みつける。 「奴隷、貴様……!今、何をした!」  アルキバはジルソンではなく国王を見て言った。 「いつ、過ちに気づくんだ?」  王は射抜かれたようにアルキバを凝視した。夢で何度も聞かされた、海の王と同じ台詞。  王は今初めて、アルキバが夢の中の「海の王」と瓜二つであることに気がついた。  そしてリチェル。リチェルは夢の中で海の王を虐げる「森の王」と瓜二つではないか。  今気付かされたこの事実。王の心の内に緊迫が走った。  迷信めいた想念が駆け巡る。  「海の王に試されているのかもしれない」と。今、この瞬間、あの呪いに関わる何か重要な局面に立たされているのでは。  ジルソンは怒声を発した。 「国王に向かってなんだ!今すぐ切り捨てよ!不敬罪で処刑だ!」 「控えよジルソン」  は?とジルソンは父王を振り返る。言われた言葉が理解できない、という風に。ダーリアン三世は、穏やかさの中に叱責の声色を滲ませながらもう一度言う。 「控えよ。余が、リチェルの話を聞くと言っておるのだ」 「その必要はございません!」 「何度も同じことを言わせるな!余はリチェルの話を聞く!」  滅多に声を荒げない王が、大声を出した。  場の空気がぴんと張り詰めた。ジルソンは驚いて口を引き結んだ。うろたえながら顔を伏せて謝罪する。 「し、失礼いたしました、父上」  何か言いたげに口を開いたオルワードを、ジルソンは伏せた目線で制した。だが制したジルソン自身が拳を震わせていた。  王がリチェルに促す。 「話とは何だ」  リチェルは緊張を律するように深呼吸をし、恭しくこうべを垂れた。 「発言の機会を与えてくださり感謝します、陛下。私は昨晩、グリンダス通りのホテル・グラノードにて、護衛騎士のヴィルターに腹を刺され、ここにいるアルキバに命を助けられました」  ミセス・ダウネスがびくりと顔を上げる。彼女はまだ詳細を知らされていなかった。息子の死についても。  リチェルは言葉を続けた。 「ヴィルターは、ジルソン王太子殿下がミセス・ダウネスを人質に取り、私を殺すよう命じたと申しておりました」  ジルソンは、笑みを浮かべて肩をすくめてみせた。  「ほら、頭がおかしいことを言い出した」とでも言いたげな表情を作って、重臣たちを見渡す。重臣たちは困惑混じりの苦笑いでそれに応えた。  王は静かに尋ねる。 「そなたを刺したヴィルターは、今どこにいる?」 「俺が殺しました」  質問に答えたのはアルキバだった。場の注目が剣闘士に集まる。アルキバはペリーを取り押さえながら言う。 「ヴィルターがリチェル殿下を刺し、殿下は意識を失ってしまわれた。ヴィルターは俺を殺して俺に殿下殺害の罪をなすりつけようとしました。俺はヴィルターを殺し、殿下を医者の元に連れていきました」  ミセス・ダウネスが泣き崩れた。その肩にクラリスが腕を回し、なだめるように背中をさする。  リチェルが後を引き継いだ。 「私はアルキバを剣闘士団から買い、我が臣下としました。アルキバとクラリスに命じ白蘭邸地下室を調べさせたところ、彼らは監禁されていたミセス・ダウネスを発見し、また監禁の実行犯の一人と目されるペリー・キヌーズを捕らえました次第です」  王は女性二人を見た。 「その方ら、リチェルの言うことは本当か?」  クラリスはうなずいた。 「はい、確かに私もこの目で見ました。ミセス・ダウネスが地下室の隠し部屋に縛られ倒れている姿を」  ミセス・ダウネスはさめざめと泣きながら、 「ああリチェル殿下、どうか我が愚息をお許し下さい。リチェル殿下は謀反を起こした息子の母である私を、それでも助けて下さり、あのように優しく抱きしめて下さった。このご恩は決して忘れません」  女性二人の証言により、空気が変った。重臣たちは互いを見合わせた。  ジルソンの表情が忌々しげに歪み、国王の眉間に深いしわが刻まれた。王は問いかける。 「詳しいことを聞かせてくれ、ミセス・ダウネス」 「はい陛下。実を申せばヴィルターは一月ほど前から私に悩みを打ち明けておりました。ジルソン王太子殿下からリチェル殿下を葬るよう命じられたと。お前はリチェル殿下の臣下なのだから決してその信頼を裏切ってはならない、早く陛下にそのことを奏上なさい、と私は申しておりましたが、まさか息子が私の命を盾に脅されていたなんて。縛られ閉じ込められるまで、気づくことができませんでした。声しか聞いておりませんが、私を捕らえたのは確かに、ジルソン殿下とペリー様でした」  ジルソンがどん、とテーブルを叩いた。 「ミセス・ダウネス!滅多なことを言わぬほうが身のためですよ、姿も見ていないのに声だけで私だとどうして分かるのです?失礼ですが、ご高齢でお耳にガタが来てるんじゃありませんか、マダム!」  王はその場に集まる重臣たちを見回した。 「王城の掲示板に、ヴィルターとその母は田舎に帰る、という旨の知らせを掲示したのは、誰だ?」  ジルソンの顔が強張る。  近衛騎士団長、イサイズ・ヴリースに注目が集まった。ヴィルターはリチェルの護衛騎士だったが、所属は近衛騎士団のままだった。  近衛騎士団長イサイズは起立した。上背はあるが騎士にしては細身で、いかめしい肩書きの割りにどこか気弱そうな印象を与える。  イサイズはジルソンをちらと見ながら、落ち着かない様子で言った。 「わ、私が従者に掲示させました」  ふむ、と王はうなずく。 「して、そなたはヴィルターが田舎に帰る、という話を誰から聞いた?」  縛られたまま黙していたペリーが、このときびくりと肩を揺らした。 「ペリー殿からです」 「なぜ、ペリーから?ルクサル伯爵家のペリーがなぜ、リチェルの護衛騎士のことをそなたに伝え、そなたはそれを信じた?」  イサイズはちらちらとジルソンに視線を送り続ける。その様子が王を苛立たせた。 「そなたは誰に気をつかっておる?そなたの主君は誰だ、余か、ジルソンか!」  イサイズは焦って背筋を伸ばした。王がいままでそのような選択肢を示したことはなかった。ジルソンはただ黙し、宙を睨む。 「もちろん国王陛下でございます!私も疑問に思い、『そんなわけはありません、ヴィルターはまず私に伝えるはずです、そもそも何故ペリー殿が?』と聞きました。そうしたらペリー殿に……」  そこでイサイズは一旦言葉を切り、言いにくそうに続きを繋げる。 「……ペリー殿に、『ジルソン殿下の案件だ』とだけ言われました。私は、ならば大きな事情があるのだろう、と飲み込み、掲示を指示いたしました……」 「ペリー!」  突然、大声を出したのはジルソンだった。  えっ、と顔を上げたペリーにジルソンはすごい剣幕でまくし立てた。 「貴様、私の名を使い一体何をしていた!ヴィルター殿になんの恨みがあったのか知らぬが、私怨にこの私を巻き込んだのだな、ペリー!」  ペリーがわなないた。 「な、何をおっしゃるのですか殿下!私は常にジルソン殿下のご命令に沿うて来たではありませんか!」  ジルソンはリチェルの背後に立ち尽くしていた兵士たちを指差した。 「お前達、今すぐペリーを牢に連れて行け!」  すっと手を上げて、また制したのは王である。 「何故、そなたが命ずる?王は余であるぞ、息子よ」  ジルソンはぐっと詰まりながら顔を背けた。 「で、出すぎた真似をお許しください、しかし、あまりにもペリーが許しがたく……」  ふう、と息をつき、王は兵士たちを見やる。低い声音で命じた。 「ペリーとジルソンを捕らえ、牢に連行せよ」 「なっ……!」 「何をしている、早くしろ」  逡巡する兵士たちに、王は再度促した。兵士たちは慌てて、ペリーとジルソンに駆け寄り、その体を拘束する。アルキバは笑顔で、青ざめるペリーを引き渡した。  ジルソンは拘束を振り払おうと暴れた。 「やめろっ、離せ!父上なぜですか!こんな茶番に騙されてはなりません、これは何らかの陰謀です!私を陥れようという陰謀が働いております、どうかあなたの息子を信じて下さい、父上!」 「リチェルもまた息子だ。これからこの事案を精査する。そなたは十分に疑わしい、結果が出るまで辛抱せよ」  ジルソンは衝撃を受けたように口をつぐんだ。だが兵士たちに連れて行かれる去り際、リチェルに憎悪の一睨みを送ることは忘れなかった。  リチェルは立ち上がり、ジルソンの目線をそらさずに受け止めた。背筋を伸ばし、冴えた瞳で、じっと兄が扉の向こうに消えるのを見送った。  だが扉がばたんと閉じ、ジルソンらがいなくなった途端。  緊張から解き放たれたように、リチェルの体ががくりと崩れた。さっとアルキバが抱きとめる。その両肩をしっかり抱いて、激励する。 「よく頑張ったな。戦えたじゃないか」  リチェルはアルキバに支えられ、目をうるませてうなずいた。 「ありがとうアルキバ。そなたのおかげだ……」  剣闘士と王子の、あまりに親しげなその様子に、みな戸惑う視線をよこした。  ただオルワードは、どす黒い憎しみをたたえた目で二人をじっとりと睨み付けた。  そしてダーリアン三世は、まるで奇跡でも見るかのように二人を見つめた。  海の王にそっくりの奴隷と、森の王にそっくりの王子。  悪夢の中、森の王は海の王を裏切り、海の王は森の王の末裔を血の海に沈めていた。  一方で目の前にある二人の、友愛で結ばれているような姿。  このまったく違う二つの絵は、一体何を示しているのか。海の王、何を伝えたい?  王は問いかける。 「リチェル、ヴィルターに刺された傷の具合はどうだ?」  父王の声にリチェルは慌ててアルキバから身を離し、背筋を伸ばした。 「ご安心ください。昨晩治療を受け、傷も跡形なく消えました」 「それは良かった。辛い思いをしたな」  オルワードが苛立ちの表情で立ち上がった。 「傷がない?昨日の刺し傷がそんな簡単に消えるものか!お前がヴィルターに刺された証拠はないということだね!お前が主導して兄上を謀ったんじゃないのか!」 「そ、それは……」  リチェルが狼狽し、オルワードが鼻で笑う。国王は考え込む顔つきをし、重臣たちはざわざわとし始める。また場の空気が変わってきた。  そこでアルキバが挙手して発言する。 「魔術師なら魂に刻まれた傷病歴を見ることが出来るらしい。リチェル殿下の傷病歴を見てみたらいいんじゃないですか?昨日刺された記憶が深ーく魂に刻まれてるでしょうよ、おかわいそうに。ついでにさらに以前から刻まれてるモンをしっかり陛下に知ってもらったらいい」 「傷病歴?」  国王は、列席者の一人、魔術師用ローブを着た老人を見た。 「王宮魔術師長、ヨハネスよ。今アルキバが申したことは本当か?」  王宮魔術師長は起立した。 「いかにも、本当です。しかしよくご存知ですな。魂を霊視できる、極めて有能な一握りの魔術師にしか出来ない術で一般にはあまり知られておりません。殿下の魂を霊視するなど誠に恐れ多いことでありますが、陛下のご命令とあらば私が拝見させていただきますが」  国王はうなずいた。 「見てやってくれ。リチェルもいいか」 「はい」  リチェルはうなずいた。オルワードが急に落ち着きをなくす。 「ちょ、ちょっと待っ……」 「なんだオルワード。お前が詰問したのだぞ」  父王の言葉にオルワードはぐっと口をつぐみ着席した。  王宮魔術師長は進み出てリチェルの前に立った。 「どうか殿下はそのまま、じっとしていてくだされ」  王宮魔術師長はリチェルの体に手をかざし、目をつむった。その手が青く発光し、リチェルの体も青い光に包まれる。  目をつむる王宮魔術師長の表情が、みるみる曇った。顔中のシワが何重にも増える。  やがて青い光が止んだ。王宮魔術師長は長い溜息をついた。 「もう、よろしいです。見させていただきました。確かに腹部に真新しい傷の歴があります。リチェル殿下が昨日刺されたと言うのは確かでしょう」  ほお、と感心したようなどよめきが広がる。リチェルはホッとしたように息をついた。 「そうか、ご苦労だったヨハネス」  労をねぎらった国王に振り返ると、王宮魔術師長はやや声を落として、 「それから、陛下にだけお伝えしたいことがございます」 「なんだ」  王宮魔術師長は国王のそばに近寄ると、その耳元になにかを囁いた。国王は目を見開いた。 「それは誠か」 「はい、間違いございません」  王の表情が沈鬱に沈む。席を立ち、リチェルの前に進み出た。  近づいてきた父王に戸惑うリチェルの肩に、節くれだった武骨な手が載せられる。 「……一年前、そなたが白蘭邸を離れたいと言った時、その理由をちゃんと聞くべきであった」  リチェルは、はっと息を飲んだ。  その瞳が、湖面に映し出された青空のように揺らぎ、涙が溢れる。  幼子のようにポロポロと涙を流すリチェルに、父王の目からもまた涙が落ちた。  父は息子の肩をひしと抱きしめた。 「愚かな父を許してくれ、リチェル」 「父上……」  リチェルは父の胸に額を寄せ、嗚咽した。 「そなたの無垢な魂に癒えない傷を負わせた者は誰か、教えてくれ。その者には必ず、責めを負わせよう」  場の注目が、オルワードに集まった。  それは決して不躾な視線ではなく、盗み見るような遠慮がちな視線の集合であった。  だがごく自然に、皆がオルワードを見た。  そんな様子に、剣闘士が一人、頬をひくつかせた。心底からの軽蔑と怒りを滲ませて。  本当は誰もが知っていたのだ。隠し子兄弟がリチェルを陵辱していたことを。皆が真実を知っており、そして見ぬふりをしてきた。  オルワードの額に脂汗が浮かぶ。オルワードは席を立った。 「気分が優れませんので、失礼いたします」  そしてつかつかと扉へと向かう。王はその背中に声をかけた。 「ああ存分に休み、記憶を整理しておけ。後で色々、聞くことがある」  オルワードは立ち止まり、父王に振り返った。  何か言いたげに口を開き、だが言葉にはならない。黙して一礼し、扉の向こうに去っていく。  さて、とダーリアン三世は列席者たちを見回した。 「昨晩、グリンダス通りのホテル・グラノードで人死にがあったかどうか、急ぎ憲兵所に確かめてくれ。憲兵隊長には、王が直々に調べていると伝えてほしい」  重臣の一人が立ち上がり礼をする。 「かしこまりました。すぐに確認をいたします」 ◇ ◇ ◇

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