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第19話
さっきまでの苛立ちが急速に薄れていく。
きっと全部旭葵の思い過ごしだ。今日の一生はいつもの一生だったんだ。本当に腹が痛くてトイレに駆け込んだのかも知れない。それで昼飯を食べなかったんだ。帰りだって、旭葵とすれ違いになったのかも知れない。メッセージの返事がないのだって、返信をするのを忘れているだけだ。きっとそうだ、だって今朝はいつもの一生だったじゃないか。
ポケットから缶バッチを取り出した。
「どこに行っちゃったんだよ、キング」
目を閉じると、睡魔が寄り添ってきた。一生の匂いに潜り込み、旭葵はそのまま眠りに落ちていった。
最初にそれは、瞼をくすぐった。睫毛を滑り落ちると頬をゆっくとり回遊し、唇の端で突然おずおずと尻込みをした。が、しかしゆっくりと唇の輪郭を這うように上ってきて、やがて柔らかな隙間を割って入ってきた。侵入者が歯の間からより奥へと進もうとした時、旭葵は気泡が水底から浮かび上がるように、眠りから目覚めた。
薄暗くて視界がはっきりしなかった。最初自分がどこにいるのか分からなかった。が、一生の匂いがしてすぐに自分が一生の部屋のベッドにいることを思い出した。
いつの間にか寝てしまっていたのか。いったい今は何時なんだろう。もう夜みたいだけど、一生はまだ帰って来ていないのだろうか。
起きあがろうとして、部屋の空気がうごめいた気配がした。誰もいないと思っていた部屋の角で2つの目が旭葵を捉えていた。
「うわっ」
驚いてのけぞったが、すぐにそれが一生だと分かった。
「な、なんだ一生かよ。帰って来てたんだ。電気もつけずに驚かせやがって」
一生は部屋の隅の置いた椅子に座っていた。両ひじを膝につき、口元で手を組んでいる。その目は今日の美術の時間と同じように、鋭く旭葵に向けられている。
一生に会ったら、たくさん文句を言おうと思っていた。が、どの言葉も一生のその視線で身を潜めてしまった。
「いっ一生……?」
さっき空気がうごめいたと思ったのが気のせいかと思うほど、一生はピクリとも動かなかった。
「な、なんか一生怖いんだけど」
ゆらりと影のように一生は立ち上がると、旭葵を見下ろした。
「アサ……」
「う、うん……」
「俺のベッドで寝るのはいいけど、よだれ垂らすよな」
旭葵は思わず口元をぬぐう。
一生は旭葵の方へ手を伸ばそうとして止めた。微かに息を漏らすように笑う。いつもの一生だった。
「カレー食べていくだろ。俺腹減った」
部屋のドアに手をかけ、一生は旭葵を振り返った。先に階段を降りていく一生を旭葵は追いかけた。
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