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第36話

 雲で隠れていた月が顔を出した。今夜の一生の格好にふさわしい満月だった。 「一生、お誕生日おめでとう」  一生はハッとしたように目を見開き、そして視線を逸らすと低い声で「おぅ」とだけ言った。  一生の頭をまさぐり、首の後ろ辺りに包帯の端っこを見つける。 「あいつ、どうだった?」  どうかすると、波音にかき消されそうな低い声で一生は言った。 「知らない、見ずに帰って来たから」 「は?」  顔を上げた一生の頭を押さえる。 「ちょっと下向いてろって」  旭葵は包帯の端を掴むと、時計と反対周りにゆっくりと手を動かす。 「応援に行ったんじゃないのかよ」 「そうだけど」  一生の額が顔を出した。黒い前髪が汗ばんだ額にじっとりとへばりついている。そのままするすると包帯を解いていく。 「アサの応援がなかったんじゃ、あいつ優勝は逃したな」 「何馬鹿なことを言ってんだよ。隼人は去年の優勝者なんだぞ。去年も俺はいなかっただろ」 「連覇は去年と同じ実力じゃできないんだよ。追うより追われる方が実は必死なんだ」  旭葵の応援の有無と大会結果は別として、小中とキッズトライアスロンの連続覇者である一生の言葉には説得力があった。 「連覇っていうプレッシャーはさ、二連覇だったらその倍、三連覇だったらその倍の倍みたいな感じで、どんどん大きくなっていくんだ。レースの途中でさ、苦しいわ、辛いわ、棄権という文字は何度も頭にチラつくわ、優勝を逃した時の周囲の反応まで走馬灯のように目の前に現れたりしちゃってさ、もう絶体絶命みたいな時にさ、いつも聞こえるんだ、アサの声が。“一生! 行け!”って。その声が聞こえた途端さ、目の前の道がパァ〜って明るくなってさ、まっすぐにゴールが見えるんだよ」  自分の応援はそんな大それたもんじゃない。けれど一生がそんなふうに思っていてくれたと知って素直に嬉しかった。そしてまた、今さらのように過去に一生が背負っていたものの大きさを知った。 「そっか、俺の応援が少しは役に立ってくれてて良かったよ。今日さ、隼人に『絶対優勝するから見ててくれ』って言われた時、思ったんだ。俺、一生以外のやつを応援したくないなって。一生は大会に出てないんだからこんなの変なんだけど俺、一生じゃなきゃ必死になれないっていうか、一生はいないのに、表彰台の真ん中は一生の場所で、他の誰もそこにいちゃいけないっていうか。そしたら俺、なんでここにいるんだろうって思って、一生と肝試し大会の約束もしてたのに、それよりも何も今日は一生の誕生日なのに、俺が今日一番一緒にいたいのは一生なのに、その一生がいないここで誰かの一番を応援するなんてなんか変で、それでえっと、一番が一番で、あれ、俺なにを言おうとしてんだ? とにかく、俺の一番は一生なんだ、うわっ」

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