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第69話
ヒッと、引きつるような声が出た。呼吸が上手くできない。喉元で空気が痙攣するように震えた。
「やめっ、ひっ……」
旭葵の白い肌に痕跡を刻もうとしていた一生の唇が動きを止めた。わずかに上体を起こし、旭葵を窺い見る。一瞬の動揺と共に旭葵を掴んでいた一生の手が緩んだ。
その一瞬を旭葵は見逃さなかった。失われていた力が光速で戻ってきたかと思うと、右手に突き抜けた。
一生への初めてのクリティカルヒットだった。
一生は激しく壁に背中をぶつけた。旭葵はすかさず一生の胸ぐらを掴み、再び拳を振り上げた。
一生はいっさいの抵抗を見せず、旭葵の次の攻撃を待っていた。さっきとは逆の体勢で、何かを訴えるような、それでいてすでに全てを受け入れているような、そんな一生の黒い瞳が旭葵を見上げていた。
旭葵はそのまま一生を突き飛ばした。
「出てけ! おまえとは絶交だ」
旭葵は吐き捨てた。一生は沈黙を抱えたまま立ち上がると、そのまま居間を出て行った。廊下が軋む音が響き、玄関の扉が開き、そして閉まる音が聞こえた。
1人残された暗い居間で、旭葵は拳を畳に叩きつけた。さっき一生を殴った痛みを痛みで消すかのように、何度も、何度も、拳を畳に叩きつけた。
「ちくしょう、ちくしょう」
こんなに一生が何を考えているのか分からないのは初めてだった。唇を合わせ、肌に一生の熱を感じるほど近くにいるのに、こんなに一生を遠くに感じるのは初めてだった。
後夜祭の夜の、温かい雨のようなキスを降らした一生と今夜の一生は別人だった。どちらも旭葵の知らない一生で、どちらも本当の一生だった。旭葵が知らなかっただけで、旭葵の知っている一生の下でじっと息づいていた一生だった。
「今までの俺たちはなんだったんだよ」
なんでも分かり合える友だと思っていた。一生の全てを知ったつもりでいた。そんな自分が情けなかった。一生に裏切られた感も拭い切れない。今まで友の仮面を一生は被っていたとでも言うのか。
荒ぶる獣のような一生の自分に向けられた情欲。いつから、そんなものを隠し持っていたのだ。そんなものを秘めながら、涼しい顔をして……。
いや、違う。一生はあの肝試し大会の夜からその断片は見せていた。それに鍵をかけ水底に沈めたのは旭葵なのだ。
後夜祭の夜、一生ははっきりとその想いを伝えてきた。そして旭葵はそれから逃げた。全て線で繋がる一生の行動とその裏に隠された想い。
ただどうして、今夜の一生が自分にあんな激しい怒りをぶつけてきたのかが分からない。メッセージの返信をしなかっただけ、隼人と一緒にいただけで、あんなに怒る一生ではないはずだ。
怒りと共に組み伏せられたことがショックだった。ひざまづき、『姫、私と踊ってください』、そう言って旭葵の手にキスした一生が、旭葵の合意なしに力で自分を陵辱しようとした事実に、旭葵は粉々に打ち砕かれた。
頭が真っ白になって身体から力が抜けた。そして、そんな一生が怖いと思ったのも初めてだった。
切った口の中が苦かった。
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