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第70話

 その夜はなかなか寝付けなかった。目を閉じ闇に身を投じると、一生の荒い息遣いと、首筋を這う生温かい舌の感覚がリアルに蘇った。その度に胸が激しくよじれ、破けそうだった。  今まで、旭葵が不安で押しつぶされそうになった時、一生はその不安を背負ってくれた。泣きたくなるようなことが起きた時、一生は黙って肩を貸してくれた。怒りで身体が震えた時、一生がその怒りを丸ごと包み込んでくれた。一生はいつでも旭葵の隣にいて、旭葵のあらゆる感情を分かち合ってくれた。  その一生が、今回はいないばかりか、旭葵をこんな気持ちにさせている張本人なのだ。  眠れない夜がこれほど長く暗く辛いものだとは知らなかった。  朝方ようやく浅い眠りに落ちかかったかと思うと、お婆さんに叩き起こされた。  洗面所で顔を洗い鏡を見ると、首に赤紫色のアザができているのを見つけた。昨夜の痕跡だった。そこだけえぐって取ってしまえたらいいのに。それで全てがなかったことになればどんなにいいか。やるせいない思いで旭葵は痕跡の上に絆創膏を貼った。  いつものバスに乗るか迷ったが、結局普段通りに家を出た。昨日のことで顔を合わせづらいのは自分より一生の方だ。時間をずらすなら一生の方だろう。  案の定、一生はバス停に現れなかった。  旭葵は安堵のため息をついた。白い朝日が眩しい。  その日、目ざとく旭葵の首の絆創膏に気づいたのは隼人だった。 「なにソレ、キスマーク隠してるみたい」  そう言われるだろうと思っていた旭葵は準備していた言葉を返す。 「よもぎにやられた」 「ふーん」  全く信じてないようだったが隼人はそれ以上何も訊いてこなかった。  湊も絆創膏に気づいた時は、一瞬そこに目が釘付けになったが、隼人のようにそれについて触れることはしなかった。大輝だけが何も気づいていない様子だった。  湊の妹が教室にやって来たのは、昼休みになってまもなくしてのことだった。 「お兄ちゃん!」  教室の入り口で湊を呼ぶその声は、ピリッと空気を割るような鋭い声だった。その表情は固く、こちらも緊張してしまうような深刻な顔をしていた。  そして、その後ろに激カワちゃんの姿があった。激カワちゃんは目に涙を浮かべていた。2人の様子から只事でない何かがあったのだとすぐに分かった。  湊はすぐに2人の元に駆け寄った。妹の話に耳を傾ける湊の顔つきがみるみるうちに険しくなっていく。妹は湊に向かって話しながらも、チラチラと旭葵の方を見た。途中、激カワちゃんがついに泣き出した。

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