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第76話

 急に静かになってしまった病室で一生はぼんやりと窓の外を眺めた。灰色の雲に覆われた濃紺の夜空に星は出ていない。  事故を起こした昨日の夜もこんな空だった。自転車に乗った一生はものすごいスピードで走っていた。どんなふうに対向車線の車とぶつかりそうになったか、その時どうやってハンドルを切ったか、鮮明に覚えている。  海沿いの国道はトライアスロンをやっていた時によくトレーニングで走っていたコースだった。同じようにスピードを出していても、事故を起こすような無謀な走り方をしたことは一度もなかった。  なぜ、自分がそんなことをしていたのか全く思い出せない。覚えているのは、鋭い杭でえぐられるような後悔と自責の念で胸が真っ黒だったということだけだ。  そして、杭は未だに一生の胸に刺さったままだった。  旭葵。  その名前を聞いた時、杭が再び胸をえぐった。 『旭葵君にも知らせておきましょうね』  母は最初にその名前を口にした。それほど旭葵と自分は親しかったということなのだ。 『旭葵は一生の親友だよ』  湊は言った。自分はなぜ親友のことを忘れてしまったのか。一生は旭葵の顔も何も思い出せない。  旭葵。  ただその名前に心がひどく疼いた。  それ以外のことは全て覚えている。ただ1人、“旭葵”を思い出せないだけだった。それなのに、この恐ろしいほどの喪失感はなんなのだ。まるで世界から色が消えたような感覚だった。  旭葵。  心の中でその名前を呟いた。しっくりくるようで何かが違うこの響き。  一生は目を閉じた。  旭葵。  もう一度、呟いた。  その時、部屋の隅から何かに呼びかけられた。一生は振り向く。 『あなたはお父さんみたいにはならないでね』  影のようなその言葉が、一生を覗いていた。

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