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第85話
一生は今まで自分に乙女チックな感性が欠片もあるとは思ったことはないが、白雪姫や眠れる森の美女に出てくる王子たちが心を奪われる瞬間とは、こんな感じなのだろうかと思った。
目が離せなかった。
青く透き通るような白い肌、影が落ちるほどの長い睫毛は髪の色と同じに光を浴びて薄茶色に見える。
閉じられたこの瞼の奥には、どんな宝石が隠されているのだろうか。ツンとすましたような形の良い鼻の下に花びらのような唇があった。
再び頭の奥でキラリと何かが光った。風で白いカーテンがはためいて、その姿を白く照らした。
飛び散った破片のようだったきらめきが、刹那、1本の稲妻となって一生を貫いた。
自分はこの瞬間を知っている。それも1度や2度じゃない。
きらめきは太陽と暗い窓に映った炎、そして風とひるがえる白い布。波の音、甘いメロディー、絵の具の匂いが染み込んだこの部屋で聞こえたのは、紙の上を走る鉛筆の音。
目の前の花びらのような唇と、描きかけの口元が重なった。
折れた鉛筆、唇から覗いた濃いピンク色の……。
ドクドクドクドク。
心臓が激しく血液を吐き出す。
細い線の未完成のシルエット、あの時一生の目の前、光の中に座っていた相手、そして今、ここに眠る人物。
伏せられた瞳、この奥に眠る瞳は……。
大きなアーモンドアイ。色は緑が混じるガラスのビー玉。遠い記憶の波音をバックに、ある時はメロディアスな夜を従わせて、一生と重なった視線。
見たい。
抑え難い衝動に駆られた。
どうやったらこの瞳を開かせることができる? おとぎ話のようにキスをしたら目覚めてくれるのだろうか?
靄がかかったように頭が白くぼんやりする。一生は吸い寄せられるように、ゆっくり身体をかがめた。
と、その時、閉じられた瞳の間から一筋の雫が伝った。朝露のようなそれは、長い睫毛を湿らせて横に流れ落ちていった。
美しいというには儚すぎる、密かで、けれど痛みを伴うような哀しみだった。
見てはいけないものを見てしまったように一生は後ずさると、急いでその場から立ち去った。
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