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第89話
旭葵は3杯目のご飯のおかわりをお婆さんから受け取る。目の前の皿にはコロッケがてんこ盛りだ。
「ほんま今日はよう食べるなぁ」
お婆さんは呆れた顔をして旭葵を眺める。
「昼、食べ損ったから」
「で、そのまま弁当は学校に忘れてきたんか」
教室に取りに戻ったのはいいが、それどころじゃなくなってしまった。
一生は、事故で旭葵のことだけ忘れてしまった。昔のことも全部、何もかも、都合よく。湊や大輝、他のみんなのことは覚えているのに、旭葵だけすっぽり抜け落ちるなんてひどすぎないか。
旭葵の箸を持つ手が止まる。
一生の中では全てなかったことになってしまったのだ。2人だけしか知らない、海辺での抱擁、甘いメロディーに包まれたキス、そして薄暗い部屋の中での乱暴な愛情表現。
旭葵に絶対忘れられないような痕跡を残して、一生だけすっかり全部忘れてしまった。そして、自分だけ女の子と付き合いだした。
一生はもう旭葵のことなんてどうでもいいのだろうか。記憶と一緒に想いまでなくなってしまうものなのだろうか。一生の自分への気持ちはそんな軽いものだったのだろうか。
一生が記憶を失ってしまったことで、旭葵はまるで2人分の想いを背負ってしまったような気分だった。1人では重すぎるそれを、けれど旭葵にはどうしようもなかった。
「食べるんならさっさと食べんかい、片付けが終わらんやろ」
お婆さんの声で旭葵は我に返った。
「一生に忘れられたからいうてクヨクヨしなさんな。事故にあって命があっただけでも儲けもんやろ」
お婆さんの言う通りだなと思った。
「一生、いつか俺のこと思い出してくれるかな」
「思い出してもらえんかったら、親友をやめるんか?」
「そんなことないけど……」
「だったらまた新しく親友になればええやろ」
それもまたお婆さんの言う通りだと思った。
「なんか婆さんすごいな」
「当たり前じゃ、だてに歳を食っとらんからな」
「婆さん、長生きしてくれよな」
「わたしゃ殺されても死なんわ」
カカカとお婆さんは笑った。
一生が死なずに元気でいてくれた。お婆さんの言う通りまずはそこに感謝すべきだ。
一生とはまた新しく始めればいい。もしかしたらこれは一生との関係を元に戻すいいチャンスなのかも知れない。ただの親友だった頃の2人に、純粋に2人を繋ぐ感情が“友情”それだけだった頃に。
いくら世の中が変わったとはいえまだまだ男同士の関係なんて茨の道だ。都会には隼人みたいな人間もいるかもしれない。けど、時代の先端をいく少数の人間を取り上げて、『今はこんな時代だ』と言ってみたところで、大半の人間は昔ながらの保守的な生き方をしているのが現実だろう。
そうだ、旭葵さえ黙っていれば、2人はただの友人に戻れるのだ。一生は激カワちゃんと付き合いだした。何を今さら悩む事がある?
一生との間に起きた、友情を超えた出来事は旭葵の胸の中だけにしまっておけばいい。
「それでいいんだ」
旭葵は自分に言い聞かせるように呟いた。
それに、それ以外どうしろと言うのだ。何もかも忘れてしまった一生に、今は女の子と付き合っている一生に言うのか? お前は親友の自分にキスをして、暗闇の中で押し倒してそれ以上のことをしようとしたと。
言ったところで気まずくなるだけだ。その後に続く言葉はなんだ? 謝れ? それとも責任を取れ?
ハハ。乾いた笑いが漏れる。
ポンポンと、頭を軽く叩かれた。お婆さんの骨ばった皺だらけの手が旭葵の頭に乗っている。無言の優しさがその手の平から伝わってくる。
旭葵は再び箸を持つ手を動かし始めた。胸中にある鉛のような重い存在は今は無視することにした。
そうしなければこれから先、一歩も前に進めない気がした。
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