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第93話

 旭葵は先週の日曜日のことを思い出していた。縁側でよもぎをお腹に乗せてゴロゴロしていたら、お婆さんに町に行く用事を頼まれた。  その帰り道、バスに乗ってほどなくして雨が降り出した。  その日のバスはやけに混み合っていた。この田舎町でドラマか何かの撮影が行われたようで、それを見に行った人たちの帰りとちょうど重なったようだった。  次第にひどくなっていく雨で運行が遅れ、バスは寿司詰め状態になる。ドアの近くにいた旭葵も押しに押されて、本当は立ってはいけないステップに足の置き場を探すしかないほどだった。  午前中は雲一つない晴天だっただけに、傘を持たずに家を出て来たのか、バス停に雨避けがないだけにみんな必死だった。  そんな人間たちの事情などお構いなしに雨は、今や土砂降りとなって人々を容赦なく追い立てていた。  乗車率200%のバスの扉が閉まろうとした時、雨で白くけぶる道の向こうから走ってくる人影が見えた。  最初1人だと思っていた影は近くにくると2人になった。その2人は旭葵がよく知っている2人だった。  一生と激カワちゃんだった。  一生が雨で濡れないよう広げたジャケットの中に激カワちゃんがいた。一生の中にすっぽり収まった激カワちゃんは鳥のヒナのように見えた。  そのバス停の近くには若者に人気のデートスポットがあり、激カワちゃんのめいいっぱいおしゃれした格好からも2人がデートの帰りだとすぐに分かった。  2人がドアの前に来た時、一生は入口のそばにいる旭葵に気づいた。  ぎゅうぎゅうのバスに一生が激カワちゃんを押し込む。  どうにか激カワちゃん1人はバスに乗ることができたが、一生のスペースを作るのは無理そうだった。 「先輩も早く」 「俺はいいから、鈴だけ乗ってけ」 「そんなのダメです、先輩も一緒じゃなきゃ」  バスから降りようとする激カワちゃんを一生は押し戻す。 「俺は大丈夫だから」 「いや、私も降りる」 「こんな雨の中、鈴をずぶ濡れにするわけにはいかないよ」 「いや、私も先輩と一緒に濡れる」 「馬鹿、風邪ひくぞ、俺のことは心配しなくていいから行け」  若いカップルのやり取りにバスの運転手が申し訳なさそうに口を挟む。 「あの〜お客さん、申し訳ありませんが運行がかなり遅れてますので、ドアを閉めさせていただきますね」 「あ、はい、すみません、行ってくだい」  一生は運転手に向かって頭を下げた。 「先輩!」  激カワちゃんが細い腕を一生へと伸ばした。  一生はその手を握ると、 「また明日な」  濡れた顔で微笑んだ。  ドアが閉まりかけた瞬間、 「俺降ります!」  旭葵は声を張り上げると、あっという間にバスから飛び降りた。

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