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第96話
「今バス停にいる。ああ、うん。旭葵と話すか? そっか、分かった。いや、じゃあな」
隼人が電話を切ると、気まずい間があいた。2人が今こうしているのは一生によるものなのに、今の電話は一生からだったのに、2人はあえて一生の話題を避けるかのように沈黙した。
雨だけがうるさく地面を鳴らし続けている。
「旭葵、俺と付き合おうよ」
「やだよ」
「速攻だな、少しくらい迷ってくれないのか」
語尾が笑っていた。が、急旋回するように今度は真剣な声を隼人は突き立てた。
「あいつはステージを降りたよ」
「なんの話?」
「まあいいさ、これからは俺の独壇場ってことだ」
「俺は隼人と付き合ったりしないからな」
隼人は傘を持つ旭葵の手を上から掴んだ。
「一生じゃないとイヤ?」
旭葵の鼻先に隼人の顔があった。
「一生が好き?」
旭葵は傘から手を離そうとしたが、隼人が痛いくらいに上から握りしめてきて逃さない。
「なに言って……」
いつの間にか訪れていた宵闇と一緒に2人を眩しく照らしたのはバスのヘッドライトだった。
バスは空気の抜ける音と共に車体を1段低く下げると、2人の前で扉が口を開けた。
バスの扉の開く音で旭葵は雨の日曜日から学校前のバス停に戻って来る。
目の前で旭葵を待っているバスに急いで乗り込んだ。
車内はガランとしていていつも一生と並んで座っていた同じ席に腰を下ろした。暗い窓の外を眺めていると、夜の海に明かりを灯した船が見えた。
「あれってイカ釣り漁船だよな。今の時期だと何イカだろ」
振り向くと誰も座っていない空のシートがあるだけだった。
自分の吐いた言葉がそのままそこに転がっている。
窓の外に視線を戻す。トンと額をガラスにぶつけた。
『一生が好き?』
隼人の声が頭の中で再生される。
自分の吐いた息で、うっすらと曇った窓ガラスに指先を這わせた。
一生が好き?
隼人の声が自分の声となって、再び旭葵に問いかける。
バスを降りると波音に迎えられる。冷たい海風が吹きつけ旭葵は心配になったが、すぐにその心配が無用のものだと気がついた。
部活終わり、タオルで乾かしただけの一生の髪はいつも少し湿っていた。だからこんなふうに風の冷たい夜、いつも旭葵は一生が寒くないか気になった。
『もっとちゃんと乾かせよ』
そう言う旭葵に、
『アサを待たせたくないからさ』
一生はそう応えた。
アサ。
旭葵をそう呼ぶ一生はもういない。
アサ。
木漏れ日のような優しい瞳で旭葵を見つめる一生はもういない。その瞳は今は別の人間に注がれている。
「俺の一生はもういないんだ……」
一生じゃないとイヤ?
大きな石を飲み込んでしまったように息が詰まって胸が苦しかった。答えたくない。
一生が好き?
だって、もう遅い。
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