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第98話
「あれ? 如月先輩?」
その声が旭葵の全身をこわばらせた。それは今までこの家から聞こえてきたことのない声だった。
子猫の鳴き声。ゆっくりと旭葵は振り返る。
廊下の奥から顔を出したその声の持ち主、一生を追いかけ続け、ついに雨降りの一生のジャケットの中を手に入れた激カワちゃんだった。
その激カワちゃんの背後にゆらりと一生が立った。
「じゃ」
玄関を開けた旭葵の腕を一生のお母さんさんに掴まれる。
「ねぇ、上がっていって」
「如月先輩!」
激カワちゃんが玄関に走り出てきた。子猫なのに主人を出迎える子犬みたいだな、と思い、そんなことを考える余裕が今の自分にあるのが旭葵は不思議だった。
「如月先輩、この前はありがとうございました! あれからずっとお礼をしなきゃって思ってたんですけど」
激カワちゃんは苺のプリント柄のエプロンをつけ、濡れた手には布巾を持っていた。前言撤回。これは主人を出迎える子犬じゃなくて、主人の友人を迎える新妻だ。
一生のお母さんは雨の日の話を激カワちゃんから聞くと、有無を言わさずに旭葵の退路を絶った。2人の女性に片方づつ腕を取られ、旭葵は家の奥へと引きづり込まれた。
一生とは目を合わせなかった。一生もまた無理に旭葵と言葉を交わそうとはしてこなかった。
「今日、お母さんと一緒にケーキを焼いたんですよ。夕飯の後に食べましょ」
ダイニングテーブルの上には手作りの苺のショートケーキが乗っていて、部屋全体に甘い香りが漂っていた。香りに質量があるかのように、旭葵にはその場の空気が重く感じた。吸い込むとそれは肺の中で不快に旭葵を刺激する。
一生が入院していたのは数日だったが、激カワちゃんはその数日間、一生の病室に入り浸り、そこですっかり一生のお母さんと打ち解けたらしかった。
激カワちゃんのキッチンでの立ち回りを見るところ、一生の家に来たのは今日が初めてではなさそうだった。この短期間で2人の仲がこんなにも親密になっていたことに、旭葵の胸はざらついた。
一生のジャケットの中に入れてもらった激カワちゃんは、今、いったい一生のどれくらい内側まで入り込むことを許されているのだろうか。
もしかしてすでに旭葵の知らない一生を激カワちゃんは知っていたりするのだろうか。家に来たからには当然一生の部屋にも入ったことだろう。激カワちゃんは一生のベッドに腰掛けたりしたのだろうか。
止まらない想像に旭葵は奥歯を噛み締めた。
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