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第100話
パクチーを口に入れるとカメムシの味がした。
激カワちゃんが何か言って、一生と一生のお母さんが笑ったが、旭葵には3人の会話が聞こえてこなかった。まるで無声映画を見ているようだった。
3人ともカメムシ味の鍋を囲んで幸せそうにしている。自分だけ違う星の人間になってしまったように感じだ。
激カワちゃんは笑いながら一生に体を傾けた。その激カワちゃんの頭を一生がポンポンと撫でる。
鈍い音を立てて胸が軋んだ。1歩後ずさると視界から色が消え、モノトーンになった3人は旭葵からもっと遠くなった。
息苦しさが増す。細く開いていた糸の隙間さえもが閉じようとしていた。
今、旭葵の目の前にいる一生は一生であって一生でない。旭葵の代わりにパクチーを食べてくれた一生はもういない。
一生はもう、激カワちゃんのものなんだ。
気づくと椅子から立ち上がっていた。
「ちょっとトイレ」
旭葵は逃げた。これ以上は窒息してしまいそうだった。
個室の扉を閉めるとずるずるとその場にしゃがみ込んだ。目を閉じ、扉に頭を押し付ける。
「しっかりしろ、旭葵」
叱咤する自分の声はカラカラになった喉で空回りするだけだった。自分の輪郭を保っているものがほつれていくような感覚に襲われ、得体の知れない不安が忍び寄ってくる。
誰か助けて。
自分が自分から離れていく恐怖に旭葵は声にならない叫び声を上げた。
一生。
旭葵の記憶の中の一生が旭葵に笑いかける。
一生、助けて。
失われていた聴覚に戻ってきたのは、扉の向こうから聞こえる一生の笑い声だった。
その笑い声は旭葵にではなく激カワちゃんに向けられたものだった。
旭葵の一生はもういない。
「俺の一生に会いたいよ……」
冷たい水で顔を洗うと廊下に出た。ダイニングに戻る途中で階段の下を通りかかる。階段を上がったすぐ横に一生の部屋があった。
薄暗い一生の部屋でベッドに腰掛ける激カワちゃん。一生の部屋をよく知っているだけにリアルに想像できた。重なる2つの影。
もう2人は……キスをしたりしたのだろうか。もしかしたらもっとその先も……。
一生の腕の逞しさ、じっとりと汗ばんだ肌、一生の唇、舌のうねり、湿った息づかい、一生の爆発するような熱く固い中心。生々しく知っているだけに心臓が捻り潰された。
廊下の先の玄関に目をやる。
帰りたい。今すぐに。
ケーキの甘い香りが充満したダイニングに足を踏み入れた時から、違うもっと前、玄関で激カワちゃんの姿を家の奥に見た瞬間から、帰りたかった。
一生が旭葵のことを忘れてしまった以上、この家に旭葵の居場所はなかった。夕食の途中で退席する理由を懸命に考えたが、いい言い訳が見つからない。
拒否する心を押し殺し、旭葵は自分にダイニングに戻ることを強制した。心を空っぽにして。
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