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第102話
「一生は、もうトライアスロンはやらないのかな」
旭葵の中でどうしても諦めきれない思いが思わず口からこぼれた。
「あの子は、父親を嫌ってるから……」
それは薄々旭葵も勘づいていたことだった。一生がトライアスロンを止める前ぐらいから、一生は父親の話題を一切口にしなくなった。
それまでは側から見ていても本当に仲の良い親子だった。一生にとって父親はトライアスロンの師であり、目標であり、そしてライバルでもあった。
きっと、一生の両親の離婚の理由と一生がトライアスロンを止めたことは関係がある。けれど一生が何も言わない以上、家族のことを他人の旭葵が口を挟むべきじゃない。
他人、家族。いくら幼なじみで親友でも、それがどんなに濃くても、一生と旭葵は他人という平行線のまま、2人がそれ以外の名前になれることはない。
トマト鍋を囲むお母さんと一生、そして激カワちゃん。今は違っても、激カワちゃんはこの家の本物の家族になれる。小3の頃から出入りし、一生の家族の次にこの家に慣れ親しんだ旭葵など簡単に飛び越えて。
これが、親友と彼女の違いなんだ。
記憶の彼方で少年の日の一生の声が響いた。
『アサ、俺の姫になれよ』
自分は、一生の本物の姫にはなれない。それだけではなく、あの時の一生はもうどこにもいない。
一生のお母さんが洗う、流れる水の下で触れ合う食器の音が、妙に響いて聞こえた。
一生が戻ってくるのを待たずに旭葵は一生の家を出た。
行きと同じように下ばかり向いて歩いた。違ったのは行きはのろのろ歩きだったのに対し、帰りは早足だった。手ぶらだからでもなければ、夜風が冷たいからでもない。
早く、早く、自分が決壊する前に早く辿り着かなければ。
玄関を入ると家の電気もつけずに自分の部屋に直行した。お婆さんはまだ帰ってきていなかった。布
団を敷くとコートを着たまま頭から潜り込んだ。
暗く狭い布団の中で、旭葵は声を殺して泣いた。
一生の名前はもう呼ばなかった。
一生を呼べば呼ぶほど一生がもっと遠くに行ってしまいそうだった。
一生を求めれば求めるほど、旭葵の一生はもういないのだと思い知らされた。
暗い布団の中は、無理に自分を保っていなくていい分、少しだけ楽になれた。
町の商店街を歩けば、どこからともなくクリスマスソングが聞こえてくる。一生の家でトマト鍋を食べて以来、一生とは顔を合わせてもなければ、話もしていない。まるでもう友達じゃなくなってしまったかのようだった。
けれど旭葵にとってはその方が心穏やかに過ごせた。一生と激カワちゃんが一緒にいるのを見ると、いや、一生が近くにいると胸が詰まって息苦しかった。
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