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6、うそかまことか
「こうして元に戻れたんはお前のおかげや、陽太郎」
黒波がしゃがみ込んだ拍子に、大きく開いた着物の襟から、胸筋のつくりだす陰影がチラ見えした。ぱっとそこから目を逸らせば、今度は涼やかに整った金色の瞳がすぐ目の前にある。
いまだに騒がしい鼓動を深呼吸でなんとか宥めすかしながら、俺は曖昧に首を傾げた。
「……う、うん……? そうなのか……? 黒波、飯食ったからおっきくなったの?」
「それもあるやろうけど、それだけやない。一番効いたんは、お前の力やと思う」
「へ? 力……?」
見つめてくる黒波の目力が強いので、俺はいつの間にか、尻餅をついたままじりじりと後ずさっていた。だが、黒波は構わず、四つん這いになって俺に近づいてくる。
「陽太郎のその力……そばにいるだけで力が漲る。お前、よう誰にも喰われず生き残れたな」
「く、喰われる?」
「妖にとって、陽太郎のその力は御馳走や。なのにこのあたりには、まったく妖の気配がない。不思議やなぁ……」
じりじり、じりじりと近づいてくる黒波から一定の距離保ちつつ後退するうち、とうとう壁に背中をぶつけてしまった。
「げ、現代……この時代には、もう妖はあんまりいない! ……って、じいちゃんが言ってたし、俺もほとんど見たことないし!」
「じいちゃん?」
「俺の家族! この家に住んでるんだ」
「家族……、なるほど。そのじいちゃんとやらが、妖はもうおらんて言うてはんのか? そいつもお前のような力を?」
「じいちゃんは……普通の人間だけど」
「ふうむ。……妙だな」
黒波は目を細めて俺をじっと見つめたあと、ふんふん、と鼻を鳴らしながら首筋の辺りの匂いを嗅いでくる。くすぐったさと共に気恥ずかしさが噴出し、俺は思わず黒波の鼻先をガッと掴み、腕を突っ張った。
「だから近いんだよっ! 離れろバカ!!」
「うごっ!」
「に、に、にんげんは!! いきなり、そんなふうに相手に近づいたりしないもんなんだよ!!」
照れくささを振り払うように大声でそう言い放つと、黒波は鼻を撫でながらあぐらをかいた。
「そうなん? けど、昨日は一緒に寝てくれたやん」
「それは……お前がちっちゃかったから……」
「頭も撫でてくれた」
「そ、それは……」
「こっちが子どもの姿なら、お前は遠慮なく俺の頭に触れたり服を脱がせたりするのに……」
「おおい!! 誤解を招くような言い方すんな!!」
憤慨する俺を見て、黒波がふっと唇の片端を吊り上げて笑った。ちびっこの時とは打って変わった大人びた笑い方だ。カッコ良すぎて心臓が痛い。
「俺は、力溢れるおまえのそばにいると心地がええ。満たされるような感覚がある」
「そ、そう……なのか?」
「それに陽太郎は、俺にとっての恩人や。封印を解いたのがお前でなければ、俺はとうに死んでいたやろう」
黒波は居住まいを正し、その場にスッと正座をした。改まった空気を感じ取った俺は、なんとなく同じように正座をして、黒波と正面から向かい合う。
「それに、あんなにも人に優しくされたのは初めてやった」
「……そ、そっか……うん」
「鬼である俺に手を差し伸べるという行為……まさに善行。違うか?」
「うーーーーん……善といえば善かもしれないけど、俺は……」
幼い鬼の子を放っておくことができず、寝食の場を与えたことについては、善行といって差し支えないかもしれない。だが、黒波を助けたいと願って、百パーセントの優しさをもってそういう行動をとったわけでもない。
封印を解いた責任であるとか、放っておいたら他所の一般市民に迷惑がかかるかもしれない——といった予防的な意味あいもあって、陽太郎は黒波を家に連れ帰ったのだから。……それをなんと説明すればいいのだろう。
陽太郎が言葉に迷っていると、黒波はゆるりとかぶりを振った。
「改めて、陽太郎に救われたことに神の慈悲を感じずにはいられへん。これからも、お前には教えを請いたい」
「お、おう……」
「その対価として、お前を傷つけようとするあらゆる存在から、お前を守ると誓おう」
「えっ……」
まっすぐに陽太郎の目を見つめたまま、黒波は決然とした口調でそう言った。
『お前を守る』なんて言葉を人からもらったのは初めてだ。嬉しいと感じると同時に、ざらりと腹の奥を逆撫でされるような感覚が湧き上がり、俺を戸惑わせる。黒波の瞳には曇りもなく、陽太郎を絆すために耳触りのいい言葉を並べている様子は見えないというのに。
ふと、幼い頃に妖に襲われた時のことを唐突に思い出す。
——『旨そうだ』……『お前を喰えば、おれはもっと強くなる』……『誰にも渡すものか……』
十歳になったばかりの陽太郎の脚をぬらぬらと濡れた舌で絡めとったのは、巨大な黒いなめくじのような姿をした妖だった。
遊び慣れていたはずの学校の裏山に、ある日黒々とした大きな穴を見つけた。危険そうな臭いを感じ取っていたというのに、幼かった陽太郎は好奇心に抗えず、その中に小石を放った。
暗闇から鋭く伸びてきた何かに足を取られ……気づけば、暗い洞穴の中に引き摺り込まれていた。
ハーフパンツから伸びる脚を辿って、下着の中にまで入り込んできた触手の感覚。ねっとりと濡れたものが這い回るあの感覚が、耐えきれないほどに気持ち悪かった。引き倒され、横たえられた陽太郎の腕、脚、首、顔……あらゆるところをねとねとと舐め回された。
恐ろしくて恐ろしくて、声を上げることさえできなかった陽太郎の姿を、巨大な目玉が真上から見下ろしていた。血に濡れたような、真っ赤なまなこだ。陽太郎をいたぶって楽しんでいるのか、その一つ目は時折半月状に形を変えて——……
あの時の恐怖を、ふとした拍子に思い出す。頭の片隅で警鐘が鳴り響く。
そして、そのとき妖の手から救い出してくれた人に言われた言葉も。
——妖は本来邪悪なもの。絶対に、その言葉を信じてはいけない。
陽太郎は小さく唇を噛み、ふいと黒波から目を逸らす。そして、震える唇でこう言った。
「そ、そうだよな……! 俺を守ることで徳も積めるんなら、話も早いしな!」
「え? いや、そういうわけでは、」
「うん! 手っ取り早くていいと思う。……うん、いいんじゃないか?」
「……陽太郎?」
ちら、と黒波を見てみると、俺の言葉に釈然としないような表情を浮かべている。黒波の瞳には、やはり嘘はないように見えるけれど、未熟な俺にはわからない。
——妖の言葉が嘘か真かなんて、俺にはわからないんだ。
それ以上の言葉に窮している俺を、黒波が首を傾げて見つめている。部屋の中に、居心地の悪い沈黙が満ちていたが……。
突然、トントントン! と壁をノックする音が響いた。飛び上がるほどびっくりしたけど、黙っていては襖を開けられてしまうかもしれない。
俺はうわずった声で「は、はい!! 何!?」と声を上げた。
「陽太郎くんおっはよ〜!! 早く起きないと遅刻するよ〜!」
「えっ……せ、静司さん!?」
襖の向こうから聞こえてくる甘やかなハスキーボイスに、黒波が目線で「誰だ」と尋ねてくる。俺はなけなしの眼力で「黙っていろ」と黒波を黙らせた。
「ねぇ、まだ寝ているのかい? 開けてもいい?」
「よ、よよよ、よくない! ダメに決まってんだろ!! き、着替えてるから!!」
「なーんだ、起きてるじゃないか。陽吾郎さんと一緒に、下で待ってるね」
「……えっ」
トン、トン……と足音が遠ざかってゆく。
声の主は、近所の花屋『トモリバナ』の店長・古都 静司 さん、二十九歳だ。ちなみに俺のバイト先は静司さんの店。幼い頃から何かと付き合いの多い人で、俺の生い立ちや力のことについても理解がある兄貴分である。
「……誰やねん、あいつ。妙な匂いのする男やな」
ひくひく、と黒波が鼻をひくつかせて訝しげな顔をしている。簡単に「近所の人!」と説明しつつ、俺は黒波に背を向けて大急ぎで着替えをした。
静司さんの声は普段と変わらぬおっとり具合ではあったが、「下で待ってるね」のあたりはやたらと重々しい響きを孕んでいるような気がした。なんだか、不穏な予感がする……。
「黒波は絶対ここを動くなよ! 身動きすんな! いいな!」
「はぁ? なんでやねん」
「いいから動くなよ!? 絶対覗きにきたりするなよ!? お前が静かにしてりゃ俺は救われるかもしれない! これも善行!」
ビシ! と黒波をの鼻先を指差してそう言い放つと、黒波はしぶしぶ「おう……わかった」と頷いた。
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