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6 第二章 こんな同居生活って、アリですか?
リスオは夢を見た。
十七の夏、初めて恋をした。相手は国語教師の辰巳拓也(たつみ・たくや)。リスオより十歳年上ので、モデルのような長身をしており、黒髪を後ろに撫でつけていた。垂れた目尻が印象的だった。
日本で高校教師をしているが、本当は辰巳は高貴な血筋だ。属性はドラゴン。幻獣種だ。平安時代から続く貴族の家系だという。
辰巳はその甘いマスクと、血筋と、天性のたらし力で、とにかくモテた。
――俺は天性の色事師だ。でも未成年は対象外。女子生徒の諸君、俺に惚れるなよ。以上。
四月の最初の授業で、彼はこう宣言したのだ。もちろん男子生徒は猛反発した――一部、彼にモテテクを教わろうとする輩を除いて、だが。ついたあだ名は「光源氏」。
もちろんリスオも他の男子生徒と同じだった。しかし、ある事をきっかけに、辰巳を接点を持つようになる。一学期の期末テストで、国語で赤点を取ったのだ。
勉強全般が苦手なリスオは、夏休みの補習で随分と彼に世話になった。
「あれ、なんだっけ、この柿の種の人麻呂さんの歌」
学ランを着たリスオは、問題を解く手を止めた。プリントには百人一首がいくつか引かれ、その訳を書かなくてはいけない。
〈あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む〉
と印刷されている。
「『柿の種の人麻呂』ぉ? 栗田、お前ばかなのか? 柿本人麻呂{かきのもとのひとまろ}だろ」
呆れた顔で辰巳が言った。青いボタンダウンのシャツを身につけている。
「覚えらんないよぅ」
「そのくらい暗記しろ。次、訳」
「えーっと……『足を引きずる山鳥と一緒に長い夜をひとりで寝てるかも?』」
はあーっ、と辰巳は長い溜息をつく。
「『あしひき』は、『山』にかかる枕詞だって昨日も教えただろ? 『ひとりで寝てるかも?』って、語尾にクエスチョンマークをつけるな。――あのな、山鳥っていうのはキジの仲間で、尾が長いんだよ。で、この鳥のつがいは、別々で眠るって言われているんだ。そこから山鳥というのは独り寝をすることを指す」
「へー」
「あほ、よく聞け。栗田、好きな相手いるか?」
「いません」
「じゃあ想像しろ。栗田は初めて恋人とエッチしました。超幸せです。でもその相手とはたまにしか会えません。――そういうとき、一人で夜を過ごすのって、どうだ? 寂しくないか?」
「エッチ……?! さ、寂しいです」
リスオは頬を赤らめながら、ぼそぼそ答える。
性愛を抜きに文学は語れない、がモットーの辰巳は、高校生には刺激的な言葉を平気で使うのだ。
「夜が長く感じないか? 早く明日になって彼女に会いたいとか思わない?」
「思います」
「それだよ。この歌、なんか前半が長い感じするだろ? ながーい山鳥の尾とか、『ながながし夜』とか。これは全て、最後の『ひとりかも寝ん』にかかってんの。とにかく、愛する人のいない布団で眠るのは寂しい、夜が長い、早く逢いたい! って想いが溢れてんの」
「へえ~、そうだったんだ。俺たちとおんなじじゃん」
「そうだよ。万葉時代も、現代も、好きな相手に恋い焦がれる気持ちは同じなんだよ。人間って、何千年たっても変わんねえのな。だから俺、この歌好き」
辰巳がにっと微笑んだ。女性に人気の垂れ目が細くなる。
その時どきん、とリスオの胸が高鳴った。生まれて初めて感じる、甘いときめきだった。
(ふうん……。辰巳先生って、意外と良い人かも)
それが全ての始まりだった。
気さくで面倒見の良い彼に、リスオはすぐに懐く。辰巳の授業は面白く、また分かりやすかったので、国語は得意になった。
(先生、甘い物好きだって言ってたよな。お礼に何か作ってあげるか)
最初はそんな軽い気持ちだった。
補習の最終日、自宅でカスタードプリンを作って学校に持って行った。辰巳は驚いていたが嫌そうではなく、焦げ茶色のカラメルソースと、黒い砂のようなバニラビーンズが浮いた黄金色のカスタードプリンを食べた。
「うまい!」
彼はリスオの髪をぐしゃぐしゃと掻きまわした。
「わっ、なんですか」
「栗田、やるなあ。カラメルのほろ苦さと、カスタードプリンの濃厚さとのバランス最高だよ。俺が今まで食ったプリンの中で一番美味い。才能あるぞ、プロのパティシエになれる」
(……!)
湯が溢れたように、胸がじわっと暖かくなった。今までリスオの作った菓子を、そこまで熱烈に褒めてくれた人はいない。
(プロの、パティシエ……)
学びたいものも無く、地方の私立大学に進学するつもりでいたリスオに、辰巳の言葉は深く刺さった。考えもしなかった未来だが、自分にぴったりの進路に思えた。
「パティシエか……。出来ますかね、おれに」
「出来るさ、栗田なら」
栗田なら――。辰巳の言葉は、太鼓のように力強く響いた。
「あのっ、また作ってきてもいいですか? 先生に食べて欲しいんです」
と目を生き生きと輝かせた。
「いいのか? 俺はもちろん大歓迎だぞ」
辰巳の笑顔を見ていると、心臓がとくんとくんと脈打ち、頬が熱っぽくなる。自分の中に生まれた感情の名前がなんなのか解るまで、さほど時間はかからなかった。
(好きになっちゃった。先生のこと……。男同士だけど)
二学期が始まってからも、マドレーヌやクッキーなどを焼いて、辰巳に届けた。
彼の落ち着いた物腰や、色事に関する会話は、憧れと、一方的な想いを募らせるのに十分だった。
しかしとうとう現実を知る日が来た。
同じ年のクリスマスイブ。雪がしんしんと降る静かな夕方だった。国語準備室で帰りの支度をしている辰巳に、リスオはケーキの箱を差し出した。
「じゃじゃーん!」
「栗田、また何か作ったのか」
「先生、メリークリスマス。開けてみて下さい」
逸る気持ちを抑えて頬を赤くするリスオを前に、辰巳は慣れた手で箱を開けた。
中には、ブッシュドノエルが入っていた。ロールケーキにチョコレートクリームを塗り、フォークで筋を描いて幹を表現して、柊の飾りを乗せたものだ。これを作るために市内の様々な洋菓子店を巡ったり、スポンジの丸め具合や、チョコレートクリームの甘さのバランスを追求するなど自宅で何度も試作を重ねていた。
リスオが初めて作るクリスマスケーキであり、また本命相手に想いを込めたものだ。
「すごいでしょ。全部おれが作ったんだよ。先生が一人でクリスマスを過ごすなんて寂しいと思ってさ。わざわざ作ってきてあげたんだよ。ねえ、一緒に食べようよ」
「はあ?」
辰巳の瞳に嫌そうな色が過った。
リスオはいつものように、さりげなさを装って辰巳の腕に腕を絡める。
「おれ今日はちょっと位遅くなっても大丈夫だから。カラオケ行こうよ」
「カラオケ?」
「え……。行ってみたいって言ったじゃない」
「言ってない」
「言ったよ! この前授業で隣のクラスはカラオケでクリパするって聞いて、俺も行ってみたいな、って……」
辰巳は記憶を探るように宙を見てから、困ったように言う。
「ああ、そんなこと言ったかもな。でも今日は無理だ。用事がある」
「えっ……」
胸がズキンと痛んだ。
「それに、今日から俺もオフだから。『先生』はお休み」
「そんな……」
ブッシュドノエル作りに励んだ日々を急に空しく感じた。毎晩遅くまでレシピを考えたことや、小遣いをやりくりして材料を集めたことなどが蘇り、吹雪のように掻き消えた。
(先生にとって、おれの相手をすることは、授業の一環なんだ)
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