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 ズキン、ズキンと胸の痛みが酷くなる。  自分でもおかしいと思う程、菓子作りにのめり込んでいるのは、とうに気付いていた。プロのパティシエになりたいという願いは日に日に高まり、今では製菓専門学校への進学を本気で考えている。  同時に辰巳への想いも無視できない程大きくなっていた。製菓への熱意の源が恋なのか、それとも単純にお菓子作りが好きなのか、もうよく分からない。 (先生をクリスマスを過ごせると思ったのに。がっかりだ……)  リスオは密かに溜息をついた。仕方ない、辰巳の予定を確認しなかったのが悪いのだ。リスオは口角を必死に上げた。 「じゃあケーキだけ貰って下さいよ。先生の為におれ一生懸命作ったんだから」 「無理だな。荷物になるから」  ぞっとする程冷淡な口調で辰巳が言った。 「っ……!」  荷物になると言われ、心が重油でいっぱいになったように苦しくなる。まるで恋心ごと邪魔だと言われた気分だった。 「そんな、一口だけでもどうですか。せっかく作ったんですよ」  リスオは太い腕に必死に縋った。 「勘弁してくれよ。俺にも予定があるんだ」  でも、と言いかけた所で辰巳の携帯電話が鳴った。二つ折りにした窓画面に、女性の名前が表示される。リスオの副担任だった。 (えっ……?!)  リスオはピンときた。 (そうか、二人はデキているんだ)  そこではっとする。副担任は今年婚約したはずだ。 (ってことは、辰巳先生が略奪したの……?)  窓画面を見られて焦ったのか、辰巳はリスオの腕を振り払った。 「まじで時間ないんだって!」 「うわっ」  瞬間バランスを崩してリスオは机に倒れ込んだ。手が当たりケーキの箱が机から滑り落ちる。グシャッ、と何かが潰れる嫌な音がした。 (ブッシュドノエルが……!)  自分の顔から、真っ逆さまに血が引いて行くのが分かった。 「栗田!」  辰巳は一瞬迷うように固まってから、呼び出し音を無視して、机に這いつくばるリスオの背に手を置いた。いつも優しい大きな掌が、この時ばかりは素っ気なく感じた。 「ごめん、乱暴だったな。大丈夫か」 「……」  唇が震えて言葉が出なかった。指先が冷たい。箱は無残にひしゃげ、隙間から泥の塊のようになったブッシュドノエルが覗いている。甘い匂いが漏れて『MaryChristmas』とバターで書いたチョコレートの板は半分に折れていた。リスオは拳を爪が食い込むほど強く握る。 (おれの、大事なブッシュドノエルが……。先生のために、心を込めて作った、この世にたった一つのクリスマスケーキが……)  いつの間にか呼び出し音は止まっていた。 「すぐに片付けなきゃな。雑巾取ってくる」  動きだそうとした辰巳に、リスオは起き上がって告げた。冷え冷えとした声が響く。 「大丈夫です。おれが片付けておきますから。先生は早く行ってください」 「でも……」 「いいから」 「……悪い。戸締りは他の先生に頼んであるから……。じゃあな」  辰巳は、鞄を持つとそそくさと歩き出した。滑りの悪い国語準備室の戸の、耳障りな音が、やけに大きく響いた。  リスオはぺたりと床に座った。見る影も無いブッシュドノエルに涙が落ちた。箱ごとそっと持ち上げると、抱き抱えるようにして呟いた。 「ごめん……」  リスオの紅茶色の瞳から、雫が滴った。 「ごめんね、こんなにぐちゃぐちゃにしちゃって。大丈夫、おれが全部食べてあげるからね」  リスオは歪んだ蓋を開け、中から横倒しになったブッシュドノエルを取り出した。一口、また一口と食べる度に、大粒の涙と嗚咽が溢れてくる。 「ばか、先生のバカ……! 最低、嫌い、だいっきらい!!」   婚約者のいる女性に手を出すなんて、信じられない。しかしそれよりも、今のリスオは、辰巳に相手がいるという衝撃の方が大きかった。 (卒業式に告白するつもりだったのに。おれの恋、終わった……)  両手でブッシュドノエルを掴むと、一気に頬張った。ジャリジャリ、グチャグチャと、まるで砂や泥を噛んでいるようだ。 (胸が痛いよ。辛い、苦しいよ、先生……。どうにかしてよ……) 「……ひ、っく……ひく……うわ、うわぁあん……! ばか、先生の……ばか……!」 (なんでおれじゃダメなの。こんなに先生が好きなのに……他の人がいいの?)  錐で刺されたような鋭い痛みが、ずっと胸を苛んでいた。  外は吹雪だった。ビュウビュウと強い風が鳴り、窓に雪を叩きつける。こんな空模様の日は、見通しも悪く、歩くことすら覚束ない。凍えそうだ。 (忘れなくちゃ……。先生……)  リスオは顔をぐしゃぐしゃにして、ずっと泣き続けた。  それから、年明けの三者面談で、リスオは進路を変更した。関東の製菓専門学校から、フランスの有名製菓学校へ留学することにしたのだ。両親や担任教師はリスオを心配し、反対した。しかし彼は断固として譲らない。そして仏語の猛勉強し、見事に合格した。  国語準備室には、卒業するまで、それから一度も顔を出さなかった。 ☆~☆~☆~☆~☆  久々に悪夢を見た。  ロフトに敷いた布団で、目を覚ましたリスオは、大きく息を吐く。失恋した時の記憶が、そっくりそのまま上映されたのだ。 「最悪だ……」  起き上がると、体育座りをして、膝に顔を埋めた。あの頃を思い出すと、惨めさと、傷の痛みで動けなくなる。 「何年前の話だよ……」 (いい加減吹っ切れよな、おれ……)  留学を終え、帰国してから、リスオは就職先に迷っていた。関東の有名スイーツ店を考えたこともある。けれど、結局は故郷に戻ってきてしまった。どこかで、偶然辰巳と再会するかもしれない、という想いがあったからだ。  けれど、まだその機会は訪れない。 「ううう……。あー……、おれ超しつこい。ストーカー並……」  唸っていると、はしごの下からうるさいほど元気な声がした。 「リスオ!」 「……」  リスオはピクリと反応する。 「まだ寝ているのか? 全く、だらしがない。起きろ!」 「ううぅ……」 「腹が減ったッ」 「うるさーい!」  リスオはガバッと起き上がると、するするとはしごを降りる。リス属性なので、こういう動きは得意なのだ。 「遅いじゃないか」  下でキングが待っていた。トレーニングを終えて風呂に入ったのか、染み一つない柔らかな白いバスローブを纏っている。黄金色の髪と、獅子の耳が濡れて、毛先からぽたぽた雫が垂れている。 (そうだ、今こいつがいるんだった)  はあ、とまた溜息が出た。 「ちょっと、大きい声出さないでって言ったでしょ。近所迷惑になる」 「ただ呼んだだけじゃ起きないだろう。わざわざこの俺様が起こしてやったんだ、感謝しろ」  リスオは時計に目をやった。まだ朝の六時だ。 「だからって早過ぎるよ。せっかくの休みなのに」 「今日は出掛ける約束だろうが。遅れるぞ。ウオンの朝市は八時からだ」 「ウオンの朝市……」 「サツマイモが安いぞ。しめじもだ」 「しめじはいつもお買い得価格だよ……」 「そうなのか? まあいい、早く起きろ。俺は卵焼きと納豆が食べたい」 「それくらい自分で用意しなよ」 「無理だ。卵を割ったことがない」  両手を腰に当ててキングが言った。 「何えばってんだか。家庭科を習い直した方がいいよ。――分かったよ、起きる」  しぶしぶと起き上がった。 (調子狂うんだよなぁ、こいつがいると……) (にしても、モフスタの社長がおれんちにいるなんて、まだ信じられない)  キングが突然押し掛けてきてから、一週間が経った。  あの後、リスオのアパートに無理矢理上がり込んだキングは、一方的に自分のことを話した。  双子の妹達は、まだ三歳で、苺のショートケーキが好きなこと。

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