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「ごめん、ごめん。でも、お祝いをしたいのはマジなんだ。いい温泉を知ってるんだよ。一泊二日。どうだ?」 「えっ、温泉……?」  その時、辰巳の後ろに客が並んだ。注文をしたいのだろう。 「わるい、俺邪魔してるな。とりあえず今日は帰るよ」  辰巳は手近にあったクッキー缶を取り、会計を促す。「ありがとうございます」とリスオがレジを操作している間、辰巳は側に置いてあるショップカードを抜き、自前のボールペンで隅に何か書き付けた。 「俺の番号。電話して」  ウインクしながら、指先で挟んだカードを差し出される。 「でも」 「栗田も成人したんだろ? 温泉入ってゆっくり酒でも飲もうじゃないか。なっ?」 「だけど……」  リスオは戸惑いながら受け取る。 「じゃあな。待ってるよ」  商品を持つと、辰巳は軽い足取りで店を出て行った。彼がいた場所には、レモンのような甘くてセクシーな香りが漂っている。愛用のトワレはまだ変わっていないようだ。  その匂いが鼻をツンとついた時、リスオは初恋の切なく甘い記憶に、キュンと胸を疼かせた。 (この匂い、覚えている。朝いちの、先生の授業だ……。おれは一番前に座ってて、この香りを嗅ぎながら、先生を見てたっけ。先生は時々振り返って生徒を見渡して、そのとき一瞬だけおれと目が合って……。嬉しかったなあ、ドキッとしたなあ)  高校生の時の自分は、辰巳に好かれようと頑張っていた。国語の成績を上げようと、放課後も図書館で勉強に励んだり、『恋の成就には笑顔が大事』と書かれた星占いを鵜呑みにして、辰巳にいつもニコニコしたり。  数ヶ月後には大失恋をするはめになるのに、十七才のリスオは一途に辰巳を追いかけていた。 (バカだなあ……。あの頃のおれ、本当にバカだったな……)  当時、彼に恋焦がれていた自分が健気で、いたいけだった。  辰巳と再び会えたらいいと思っていたのは確かだ。しかし、じっさい顔を合わせてみると、どうしても時間の流れを感じてしまう。 (先生、渋みが増したな……。というか年をとったんだな)  彼が目の前からいなくなり、客観的な感想が沸いてくる。 (温泉旅行、か……。どうしよう)  というのが正直な気持ちだった。同時に、こうも思う。 (どうしておれは、先生に会ったのに、それ程嬉しくないんだろう……。昔はあんなに顔が見たかったのに……)  答えの出ない問いに、胸が重く沈んでいく。 「あのう、注文いいですか?」 「あっ、はいどうぞー」  次の客に声をかけられ、リスオはむりやり微笑んだ。辰巳へのノスタルジアは、トワレの残り香のように、しばらく脳裏から離れなかった。  そして夜。  気が進まないながらも、リスオは仕事が終わった後、辰巳に電話をかける。放置することも考えたのだが、教え子と教師という関係上、さすがに薄情だ、と思ったからだ。  結局、彼に押し切られる形で、来週末の温泉旅行を承諾してしまった。 ――うちの実家が贔屓にしてる旅館なんだ。楽しみにしてろよ。  とうきうきした彼の声がまだ耳に残っている。 (先生と温泉かあ……。困ったな)  リスオは通話を終えた後、そう思った。  裏口から店の外に出ると、キングがまだ来ていなかった。スマホを見ると〈リモート会議が長引いた。遅れる〉とメッセージが入っている。  リスオはふうと白い息を吐き、スマホをポケットにしまった。ビュウッと木枯らしが吹き、ぶるりと震えた。 「さむっ……」  キングのT京土産のカシミアのマフラーに顔を埋め、両手を脇の下に挟む。それから水蒸気の重い塊で覆われた空を見る。暗く、どんよりしている。天気予報は夜から雨だ。風に乗って流れてきた、繁華街の饐えた匂いが鼻についた。 (……まさかなあ) (まさか、辰巳先生が店に来るなんて思わなかった……)  リスオは深く重い呼吸をする。 (そりゃ、S台にいる以上、いつか会うかもとは思っていたよ? 偶然でいいから、すれ違うだけでいいから顔が見たい、って気持ちも正直あったし。そのくらい先生に未練タラタラだった。失恋した直後は、自暴自棄になってたし……)  留学中は辰巳のことを思い出してよく泣いてた。でもそれでは駄目だと考えて、新しい恋に踏み出してみようとした経験もある。 (性別を問わず、素敵な人にデートに誘われたら、断らずにちゃんと行ったし。……でも、それ以降は、おれのせいで進展しなかったけど)  実際、リスオはモテないわけではないのだ。小動物めいた可愛らしい容姿に騙されて、交際を申し込む人もいた。しかし、それを全て断ってきた。本気になれる――辰巳を忘れさせてくれる相手に出会えなかったからだ。  幼くて思い込みも多かったけれど、でも当時のリスオは辰巳の事が好きだった。心から慕っていた。 (おれは……おれなりに、一生懸命恋をしてた。好きだった、本気で。先生のためなら、なんでも出来ると思ってた。プロのパティシエになるって夢だって、先生が関わっていなければ、きっと叶えることは出来なかった)  想いは大きく、そして重かった。だから、こんなに引きずっているのだ。  もし温泉旅行に誘われたのが、今のリスオではなく、当時の自分だったら、小躍りするほど喜んだだろう。舞い上がって、当日までふわふわした頭で過ごしていたかもしれない。  しかし、現在はとてもそういう気分になれない。 (今さら……) (おれを今さら尋ねてきて、どうしたいんだろう……)  この期に及んで、なんなのだ。辰巳は、なぜリスオに会いに来たのか。まだ自分に気があると思っているのだろうか。 (そんなわけあるか。こっちは先生を忘れるために、猛勉強して、渡仏までしたってのに……)  失恋を乗り越える為には、時間が必要だ。それも、想像するよりも長い時間が。 (最近、ようやく悪夢を見なくなったのに……)  ゾンビケーキのアイデアが湧き、トラウマだったクリスマスに向き合えるようになった。それはリスオにとって一つの恋の終焉が近いことを意味する。  だから今下手に辰巳と会って、気持ちが戻るのが怖いのだ。また、彼にときめいてしまったら……。 (嫌だ。あんなに苦しい恋は、もうたくさんだ……)  リスオは首を横に振った。ぎゅっと目を閉じている。長い睫毛が震えていた。 (おれは幸せになりたい。一方的な片想いじゃない、愛して、愛される関係を築きたいんだ) (やっと、やっと……前に進めそうなのに……!)  辰巳に振られ、新しい恋に進めず、灰色の日々を送っていたが、しかし最近目に映るものが色づいて見える。ふさふさの黄金色の髪と、スミレ色の澄んだ瞳。我が儘ばかり言う心地よいテノール。ムスクのような彼のフェロモンの香りを嗅ぐと、自然と胸がドキドキする。そして、口づけした時の、相手の唇の感触。さらりと乾いていて、柔らかく、熱い唾液の味がする。  今、リスオのもとには、幸運の招きライオンがいる。年下のくせに偉そうで、俺様気取りの、あの獣だ。 (おれを変えてくれたあいつの為にも……ここで後戻りする訳にはいかない)

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