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もう年上の男によろめくような、子供ではないのだ。八年分、自分だって成長している。
(おれはもう平気だ。例え二人きりで温泉旅行に出たとしても……おれなら、大丈夫)
リスオはゆっくりと目を開けた。そして胸に手を当てて深呼吸する。紅茶色の瞳が、決意に満ちている。
(むしろ、おれは行かなくちゃいけない。ここで逃げたらだめなんだ。初恋に決着をつけるために。未来に踏み出すために……)
(――先生に、さよならを言うんだ)
一瞬ザァッと強い風が吹いて、リスオの髪と尻尾を揺らした。冷たい雨がぽつぽつと降り出す。遠くにキングらしき人影が見えた。
「キング……!」
リスオは濡れるのも構わずに、走り出した。
☆~☆~☆~☆~☆
辰巳との温泉旅行を三日後に控えた、ある夜。
晩ご飯を終え、湯船に浸かりながら、リスオは長い溜息をついた。温泉旅行の約束をしてから、もう何日も経つ。なのに、まだキングにそのことを話していないのだ。
(あー、どうしよう、どうしよう)
(キングになんて言おう。旅行は明後日なのに……!)
リスオは濡れた両手で前髪を掻き上げる。
「ああ、もう、あの日すぐ言えば良かったっ」
過去に別れを告げると決めたが、最大の問題はキングにどう切り出すかだ、ということを、リスオは分かっていなかった。
キングはただの居候なのだから、変に気を遣ったりせずに、堂々と温泉旅行に出かければよい。そう思うのだがなぜか後ろめたさが湧いてくる。
しかしそうなると、その気が咎める感じの理由が分からないのだ。
リスオの中には、二つの気持ちが複雑に混ざり合っている。
ひとつは、過去の思い人・辰巳への感情。
もうひとつは、キングへの名前のつかない想い。現在進行形で、共に暮らしている分、余程こちらの方が難しい。
(あいつと一緒にいると楽しい。それは間違いない。キングとならキスも、それ以上も嫌じゃない。ということはおれのキングへの感情は、ライクじゃくて……ラブなのか?)
(おれは失恋を乗り越えて、新しい好きな人を見つけたんだろうか……?)
「ああもう、おれにはややこしすぎるよ……」
リスオは、湯船に口まで沈み、ぶくぶくと泡を立てる。
しかも、他にも気になる点がある。
最近、どうもキングが変なのだ。やけにリスオと行動を共にしたがる。職場への送り迎えはまだしも、買い物や、ちょっとコンビニに行くだけでも、一緒に着いてくるのだ。最初はそれ程気にならなかったけれど、ここまでぴったり貼り付かれると、ウザいを通り越して、正直怪しい。行動を見張られている気がする。
これが俗に言う束縛というものなのだろうか。
(先生と温泉に行くなんて言ったら、あいつなんていうだろうか……。快く送り出してくれるだろうかな。それとも反対される?)
(もし賛成なら、正直いって、複雑。おれが他の男と何をしてても、気にならないってことだよね……。だけど、旅行に出るなって言われると、それはそれでムカッとする。お前に束縛される筋合いはないよ、とも思う。でも、『お前は俺のもの』みたいに扱われるのは、独占欲を感じて、ちょっと嬉しい、かも……)
結局、キングに賛成されれば、自分のことに無関心のようで悲しいし、逆に反対されれば、彼からヤキモチめいたものを感じて、舞い上がってしまう。
はあーっ、とリスオは赤い顔で、長い息を吐いてから、風呂から上がった。
(先生が現れたせいで、頭ぐちゃぐちゃだよ……)
部屋に入ると、キングがソファでくつろいでいる。
「リスオ。スマホ鳴ってたぞ」
彼が振り返った。ローテーブルにスマホが置いてある。ラインの受信を告げるランプが点滅していた。
「え」
リスオは慌ててスマホを取る。その姿にキングが目を止めた。意味ありげにこちらを見ている。
(先生の名前、見られていないよな……)
ドキドキと鼓動を早くしながら、その場を離れ、内扉を締める。なぜ自分がこそこそしなければならないのか、そんなことを考えながらスマホのロックを解除した。
案の定、相手は辰巳だった。『嫌いな食べ物はないか?』と書かれている。旅館でのご飯のことだろう。特にありません、と打ち込んで、送信した。
ふう、と息をつく。
(よし、部屋に戻ったら言うぞ、温泉旅行のこと)
意を決して内扉を開けた。ガラッという大きな音に、キングはびくりと背中を跳ねさせた。彼もスマホを見ていたのか、まるで隠すかのようにすぐ画面を暗くする。
「よ、よお」
キングがぎこちない笑みをリスオに向けた。その表情を見た途端、リスオの第六感がピンと反応する。
(怪しい……)
(なんかおかしい……。俺様のあいつが、「よ、よお」なんて、間抜けなことを言うなんて。いつもなら開口一番「遅い」とか、「腹減った」とか言うのに。それにあの笑顔……明らかに作ってる)
じろっとリスオはキングを見詰めた。すると、さっと瞳を逸らされる。ますます怪しい。リスオは、自分こそキングに隠し事をしているにも関わらず、彼に疑いの視線を向けた。
「……仕事?」
いつもより数段低い声で、リスオは言った。
「えっ?」
キングも平常より上擦った声で答える。
「スマホ」
「あ、ああ……。真咲から、ちょっと。大事な話」
「ふうん……」
(また真咲さん、か……)
最近、キングは頻繁に宇佐見と連絡を取り合っている。しかも、リスオに聞こえないように、電話が来るとわざわざ外に出るという周到ぶりだ。
リスオは、一回だけ宇佐見に会ったことがある。キングに噛みついたとき側にいた人物だ。明るくて、ひとが良い感じだったと記憶している。だから、宇佐見に対して悪い印象はない。けれど今、疑わしい行動をとるキングの口から彼の名前が出たことで、ムッとした。
(大事な話は、全部真咲さんだな……。おれには何も話してくれない)
(おれじゃ、相談相手にならないのかな……)
チリッと胸が焦げたような痛みが走った。リスオの何か言いたげな視線に、こちらも気分を害したようにキングが睨む。
「なんだ、リスオ。文句でもあるのか」
「別に」
「言いたいことがあるなら、言えよ」
「……キングってさあ、真咲さんと仲がいいよねえ」
彼と宇佐見が親友というのは知っているのに、どうしてか嫌みな言葉が出てしまう。
「……だからなんだ」
キングが眉根を寄せた。
「いつも一緒にいるんでしょ? 本当に仕事だけの関係?」
「何が言いたい」
「真咲さん、うさぎ属性で、可愛いじゃん。キングの好みなんじゃないかと思って」
「俺の好み?」
「そう。小動物系で、気が強いのがタイプなんでしょ?」
「だからなんだ」
「だから……、だから、真咲さんともエッチなことしてるんじゃないかなーって。夜な夜な、都会のオフィスで、二人っきりで……」
一体自分は何を言っているのだろう。リスオは感情が高ぶってくるかたわら、冷静なもう一人の己が、まるで幽体離脱しているかのように、自身を見下ろしている気がした。
(止めなきゃ……)
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