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30 第五章 こんな別れって、アリですか?

「なんか、元気ないなあ、栗田。なに、気に入らない? 温泉」  その夜。リスオと辰巳は、豪華な夕食を前に向かい合っていた。二人が向かったのは、S台から車で行ける高級温泉街。晩秋の日本庭園が一望できる、露天風呂つきの客室だ。  掃除の行き届いた床の間に置かれた花瓶には、収まりきらない程の白百合が飾られている。リスオへのプレゼントとして、辰巳が持ってきたものだった。  どうやら、再会した日に泣いている女の子にあげた花束は、リスオに渡すために用意したらしい。  しかし、素敵な贈り物をもらっても、美味しい料理を食べても、仲居の心づくしのおもてなしを受けても、リスオは浮かない顔のままだった。浴衣姿で、箸を持ったまま、溜息をついている。 「せっかく昼間はドライブデートしたっていうのに、ずーっと外ばっかり見てさあ。俺とちっとも会話してくれない。おーい栗田ぁ、聞いてる?」  辰巳が厚い唇を尖らせた。強い酒を飲んでいる。頬が染まり、胸元がはだけていて、色っぽい。  温泉につくまで、辰巳はリスオを乗せてあちこちを運転した。雨だが、行楽シーズンということもあり、パーキングは混んでいた。リムジンも見かけた。他にも、県外ナンバーの同じ黒い乗用車が、何度もサイドミラーに映っていた。皆目的地が同じなのか、その車たちは温泉街に入るまで、後ろを着いてきていた。 (あのリムジンと、黒い県外ナンバーは、一体どこの旅館に泊まったんだろう)  そんなことをぼんやり考えながら、リスオはやる気のない返事をする。 「はいはい、聞いてますって、先生」 「いやいや、心ここにあらず状態でしょう、どう見ても。せっかく一緒に露天風呂に入ろうと思ったのに、ひとりでさっさと大浴場に行っちゃうし。連れないぞ~」 「……はあ」  と聞こえるような溜息をついてやった。 (先生のせいでおれはキングと口論したってのに……)  辰巳が、「君たち可愛いね、一緒に飲まない?」と、仲居達の臀部をさりげなくタッチしている様子を見ていると、ますます長い息が出た。上品な着物の彼女達は、「お客様、おやめ下さい」と、にこやかに冷静な対応をしている。 (のんきにセクハラしてるし……。サイテー……) 「はは~ん、もしかして彼氏と喧嘩して、修羅場にでもなったな? 俺のせいか? 俺のせいだろ。あっはっは」  仲居達が下がった後、辰巳はまるで心を読んだかのような発言をした。ニヤニヤする姿を見て、彼より十歳年下のリスオも、さすがにムッとする。 「そうです。先生のせいで、おれは同居人と喧嘩しました」  半ばやけくそで言った。 「ははは、そうだろう、そうだろう。自分の恋人が、昔片想いしてた相手と一泊二日で温泉に行く、なんて知ったら、普通の男は嫉妬で怒り狂うね。あはは、愉快、ゆかい」  ヒイヒイと腹を抱えて笑う彼を、リスオはじろりと睨み返した。 「笑いすぎです。――ていうか、おれが先生のこと好きだって、いつから気づいていたんですか」  キングにロマンチストだとか、恋愛に夢を見すぎだとか、コテンパンにやられたせいで、リスオはいい意味で諦めの境地にいた。本人を前にして、好意を抱いていたことを伝えても、ただ気恥ずかしいだけだった。 「アハハ悪い、わるい。うん、知ってたわ。初めから」  にしし、と辰巳が食卓に頬杖をつく。察していたと言われ、リスオはじわっと頬を熱くした。 「……そ、そんなに、あからさまでしたか」 「バレバレよぅ。まあそうじゃなくても、俺くらいの色事師になれば、自分を好きな奴の目はすぐ分かる。ま、男は初めてだったけど」 「おれも先生が初めて好きになった人でした」 「そうか。悪かったな、叶えてあげられなくて」  辰巳は目を細め、いけしゃあしゃあと言った。リスオはその憎らしい程魅力的な笑みに、心の古傷がキュンと疼くのを感じた。 (ずるいな……。でも先生のそういうところが好きだった) 「先生は変わりませんね。高校時代のままだ」  リスオはゆるく首を横に振った。 「女たらしだって言いたいんだろ?」 「そうです」 「ははは、栗田は変わったな。昔はもっと可愛かったぞ」 「ふん」 「まあ、飲めよ」 「下戸なんです」 「少しくらいはいいだろう」  辰巳が徳利{とっくり}を持ち、リスオのお猪口に注いだ。しかたなしに、冷酒を舐め、すぐ顔をしかめた。わずかな量でも喉が焼ける。 「あっはっは、可愛い反応」 「先生もどうぞ」  と注ぎ返す。辰巳はそれを飲むと、手の甲で濡れた唇の端を拭った。 「にしても、まじで悪かったな。彼氏と喧嘩させちまって。初めてか?」 「先生は修羅場は慣れっこですか?」 「まあね。結婚していた時は、よくやった。主に俺が怒られた」  温泉に向かう間、辰巳は自分はバツイチだと言っていた。一年の結婚生活を送ったのち、彼の浮気が原因で離婚したらしい。 「そんな不誠実な性格で、どうして籍を入れたんですか」  リスオは呆れ顔で言った。 「くい下がられたんだよ。相手の女性が俺より四つ年上でさ」 「……」  ピクンとリス耳が反った。 (おれたちと同じ年の差だ……)  自分とキングも四つ違いだ。リスオは辰巳に気がつかれないように、膝に置いた拳をぎゅっと握る。 「やっぱ年上は面倒だよな。『自分はいま三十九で、子供を産むならこれが最後のチャンスだから』って縋りつかれちゃって。俺はもう少し自由でいたかったんだけど」 (年上は面倒……)  リスオの胸が針で刺されたように痛む。そこからじくじくと血が染み出していくように、後悔と苦しみが広がっていった。 「先生、お子供さんがいたんですか?」 「いや、デキるまえに別れた。『やっぱり貴方の遺伝子を残したくない』とか言われて。で、元妻は俺と離婚した後、すぐにいい男に出会って再婚し、いま双子を妊娠中」 「良かったですね」 「まあな。でも俺、今回のことでつくづく思ったよ。年上と付き合うもんじゃないなって」 「……」  リスオはヒュッと息を呑んだ。肺が縛られたように、自然と呼吸が浅くなる。  ――年上と付き合うもんじゃない。  ガンガンと相手の声がリフレインした。  辰巳が話すように、キングも同じことを思ってはいないだろうか。 「別に相手の性格がどうのこうの言ってんじゃないんだよ。もちろん年上にもいい女はいる。ただ、ほら、年齢によってライフステージがあるだろう? 特に出産はタイムリミットがある。だからその分プレッシャーがすごいんだ。男がまだ仕事に集中したくても、結婚しろってうるさい」 「そうですね……」 「他にも、こっちを子供扱いする。バカだとか、なんにも分かっていないとか。俺より経験がある分、相手は自分の考えが正しいと思い込んでいて、絶対に引かない。むしろ諭そうとする」  思い当たる節がありすぎる。リスオの脇の下を冷たい汗が流れ落ちていった。動揺を悟られないように、ぎゅっと奥歯を噛みしめる。

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