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「素直じゃない。甘えてくれない。ツンの割合多し。なのに世話焼きで、全体的に愛が重い。後は……昔の男と比べることだな。『前の彼氏の方が大人で、私の気持ちを分かってくれる』とかさ」 「……っ」  とうとう、リスオはリス耳を塞ぎたい衝動に駆られた。辰巳が愚痴をこぼしている内容の、ほとんど全てをキングに対してやっている。  特に厄介なのは『昔の男と比べる』という点だ。実際に辰巳を引き合いに出して、キングを怒らせた。 (おれやっぱ、最悪だ。キングが愛想を尽かすのもしかたがない……)  リスオは深い息を吐く。 「……片方が年上のカップルは、続かないものなんでしょうか」 「さあな。俺には無理ってだけ。ただ年上に疲れると、やっぱ下にいきたくなるよ。こっちを敬ってくれて、ものを知らなくて、素直で可愛いな~って思うもん。――今の俺みたいに」  辰巳がまっすぐリスオを見た。リスオは紅茶色の瞳を見開き、ぱちくりと瞬きをする。 「そう、なんですか? 今さらになっておれの前に現れたのって」 「そうだよ。雑紙で見かけたのは偶然だけどね。年下に癒やされたかったんだ。で、女に疲れたから、男もいいかなーって思って」 「そんな軽い理由だったんですか……」  リスオはあっけにとられる。 「色事師なんてそんなもんだ」  キメ顔の笑顔を向けられても、呆れた吐息しかでない。 (先生って、今年で三十五のはずだよな。その歳でこんなに浮ついて大丈夫なのか?)  辰巳のあまりにフラフラした恋愛観に、だんだん熱のようなものが冷めてきた。更に、短い間だが、永遠の愛を誓った自分の妻のことを、年上だからというどうしようもない理由で、ボロクソに言う姿に、正直白けた。というか、幻滅した。 (最低じゃん……) (教師としてはまあまあ良かったけど、男としては最低じゃないか。本当の先生はこんな人だったんだ……)  十七才の夏、切ない和歌を教えてもらって、ときめいた。想いを込めて作ったクリスマスにケーキをぐしゃぐしゃにされた時は、ショックだった。初めての失恋に、涙が涸れるほど泣いた。辰巳を忘れるために、必死に勉強し、彼がいる場所から離れたくて、後先考えず海外に飛び出した。そして出逢ったパティシエという天職。お客さんの笑顔が見られるこの仕事は、リスオに生きる喜びを与えてくれた。 (おれは、先生に人生を預けすぎていたのかもしれない)  リスオは思う。辰巳の存在が、今までのリスオの全てだった。彼をいつも心のどこかで感じて生きていた。しかし、それももう終わりだ。 (もう一人で立って、歩かなくちゃ……。自分の人生を)  その時、まるで曇り空に天から陽が差すように、リスオの心がパアッと晴れた。初恋という名の呪いから解放された瞬間だった。リスオの中から辰巳への特別な感情が完全に消え去った。心に残っていた澱のようなものがスーッと流れていく。  交代に、お笑い番組を見終わったような、カラッした笑いが湧き出してくる。それは自分で自分を慰めるような、清々しさと明るさを伴っていた。 (あはは、昔のおれ見る目なさ過ぎ! 超ばかじゃん。引きずって損したな)  笑いが去ると、今度はだんだんと、ある男の顔が浮かんできた。いつもわがままばかり言う、幸運の招きライオンだ。心の中で、ずっと辰巳が居座っていた場所に、そいつが勝手に収まってしまう。 (会いたいな)  リスオの胸がキュンと甘く疼いた。 (キングに会いたい……)  彼の暖かくて太い腕に抱かれたい。あの高い鼻筋を押しつけられて、肌の匂いを嗅いで欲しい。綺麗な低い声で名前を呼んで欲しい。そして、アメジストのように輝く双眸で、自分を見詰めて欲しい。  そう思うといてもたってもいられなくなった。今すぐにでもアパートに帰って、彼が戻るのを待っていたい。そして詫びたい。  それに、これ以上、辰巳のために自分の時間を使いたくなかった。 「辰巳さん。おれ、帰ります」  リスオはスッと立ち上がった。もう辰巳を先生と呼ぶ気はしなかった。 (おれはもう、辰巳さんを心から慕う可愛い生徒じゃない。おれたちは対等だ) 「えっ、今から? いきなりだな」  辰巳は驚いたように顔を上げる。 「今日はごちそうさまでした。お店にはもう来なくていいです」 「おいおいおい、本気? もう俺酒飲んじゃったよ」 「ご心配なく。終バスを探すか、タクシーを拾います」 「栗田」 「今すぐあいつと仲直りしたいんです。――失礼します」  辰巳が止める間もなくリスオは隣の寝室に移動し、襖を閉め着替えを始める。帯を緩め、襟を開いた。中に身につけているのは下着だけだ。 (早く、はやく……)  気が急いていた。だから、後ろから辰巳が入ってきたことに気がつくのが、一瞬遅れた。 「あーあ、残念だなあ……。今日は楽しい夜になるはずだったのに。飲まない予定だったけど、我慢できなかった。ホント学ばないよな、この遺伝子は。いつまでたっても女――今回は男だけど――と、酒に弱い」  ゾッとするような低い声が響いた。突然嫌な予感がして、リスオはハッとする。すぐ振り返ると、乱れた浴衣のまま、襖に寄りかかる辰巳がいた。徳利の縁を持って、ブラブラさせている。 「ちょっと、出てって下さい」  それには答えずに、辰巳は酒を煽った。全て飲み干すと、徳利を捨て、手の甲で透明な雫を拭う。 「なあ、栗田って初物だったら何が好き?」 「はあ……?」  いきなりなんだ。 「ふふ……俺は決まってるよ」  辰巳は俯くと、コンタクトを外すような仕草をする。 (あれ……辰巳さんってコンタクトしてたの?)  リスオは得体の知れない不安を感じながら、肌を粟立たせるさせる。 「栗田、セックスしたことある?」  辰巳がまず左目の人工膜を外した。 「……」 「まだ処女なんだろ」 「……だったらなんですか」 「だよなあ。俺は、お前の彼氏の気持ちが、よーく分かるよ。栗田は気が強いけど実は泣き虫で、ピュアで、本当に可愛い。顔もいい。一緒にいて楽しいし、癒やされる。だから汚したくないんだよ……。いつまでも綺麗なままでいてほしいんだ」  今度は右目だ。リスオはゴクリと息を呑んだ。あきらかに辰巳の様子がおかしい。 「だけど俺は違うね……。人間が最も美しいのは、肉欲に溺れる瞬間だ。後先考えず、そのひとときだけ相手を独占し、自らの快感を貪り、やがて破滅する。性別は関係ない。なあ、それってまるで炎のような生き方だと思わないか? 揺らめく火は綺麗だが、苦痛も伴う。現実問題、いい大人がセックスばかりしている訳にはいかないもんな。普通は仕事もあるし家族がいる。他にも背負うものがたくさんあって、毎日時間に追われ、息が詰まる。だから誰かに癒やしを求める。心と体を寄せ合って、孤独を埋めあう。そうやって藻掻いている姿は、太古の昔から変わらない。つまりそれが文学だ。文章だけで不変に到達する芸術だ。――栗田、お前に最後の授業をしてやろう。テーマは性愛だ。俺が男を教えてやる」

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