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キングは、相手の襟首を掴むとそのまま部屋の中へぐいぐいと押し進む。食卓の置いてある広い空間に出ると、手を離し代わりに拳で思いっきり辰巳の顔を殴った。ボキッと明らかに骨が砕けた音がする。
「糞ったれっ!! 二度と俺達の前に顔を見せるな」
キングが毒づいた。
顔を打たれた辰巳は、まだ食器が残っているテーブルに派手にぶつかり、無様に畳に転がった。
「いってえ……。はは、お兄さん怖いねえ……」
辰巳は鼻を押さえながら皮膚を真っ赤にしている。指の間から血が垂れていた。キングは辰巳を見下しながらフンと鼻息を漏らすと、入り口付近に戻ってきた。
「行こう」
キングが言った。こくん、とリスオは頷く。彼のごつごつした肩を借りて、立ち上がる。淫術の効果はだいぶ薄くなっていた。
キングのぶかぶかのコートの前を合わせ、部屋を出て行こうと歩き出したその時、背後で情けない声がした。
「栗田。ごめんな」
振り返ると、あぐらを掻き、鼻血を垂らした辰巳が、リスオを見ている。まるで捨てられた子犬のような目だ。
「嫌な思いをさせたよな。ごめん。――でも分かっただろ? 俺って駄目なやつなんだ。教師なんてやってるけど、本当の俺はただクズだよ。いつも女の尻を追いかけ回して、振られてばっかり。当たり前だよな、こんな最低な男、誰だってごめんだよ」
「辰巳さん……」
切々と訴えてくるほおずき色の瞳。もう術をかける気はないようだ。
「なあ、戻ってきてくれないか。殴られて、やっと分かったんだ。栗田じゃなきゃダメなんだって。俺を愛してくれるのは、お前しかいない。お願いだよ」
リスオは時折視線を逸らしながら、黙って聞いていた。口説きが終わると、リスオは深く息を吐いてから、言う。
「辰巳さんには感謝してます。貴方のおかげで、パティシエになることが出来ました」
「じゃあ……」
「でも、それだけです。他の人と幸せになって下さい。さようなら」
リスオは、垂れ目から視線を逸らさずに言った。
昔はこの瞳が好きだった。振られてからも、ずいぶん長い間忘れることが出来なかった。
(おれの初恋は叶わなかった。でもそれでいいんだ。辰巳さんに振られたおかげで、今がある。パティシエとしてお客さんに美味しいケーキが届けられる。――そして、おれを愛してるなんて言う、変なライオンもいる)
分かれ道が目の前に来ている、という確信があった。
(ならおれは、幸福になる道を選びたい。新しい恋を――人生を、歩いて行くんだ)
リスオは前を向いた。もう過去を振り返ることはない。
「行こう、キング」
「いいのか」
「うん。終わったんだ、全部」
リスオはまだ充分に力の入らない足をかばいながらも、しっかりした歩調で、外廊下へ続くドアを開ける。もう辰巳は声をかけてこなかった。
(先生、今までありがとう)
(さようなら――……)
キングが出た後、バタンと大きな音を立てて、扉が閉まった。辰巳はもう、リスオに声をかけようとはしなかった。
☆~☆~☆~☆~☆
リスオは、まず化粧室で乱れた衣服を整えた。戻ると、キングが口を開いた。
「このまま真っ直ぐ帰っていいか」
「うん」
「じゃあ車を呼ぶ」
スマホで迎えの連絡を入れると、キングはリスオを散歩に誘った。旅館の周りが軽い散歩コースになっているのだ。リスオも外の空気を吸いたい気分だったので、すぐ了承した。
正面玄関を抜けて、ジャリジャリと小気味よい音を立てながら、砂利道を歩いていると、冬風が頬を撫でた。空は闇色に澄み渡り、たくさんの星がきらめいている。山頂に引っかかっている厚い水蒸気の塊は、雪雲だろうか。どこからか冷気の匂いがした。もうすぐ天から白いものが振ってくるのだろう。
「おれ、冬の空って好きだな。星が綺麗だから」
リスオは目を輝かせ、頬を紅潮させながら、ミルク色の息を吐いた。冷えた空気を吸って、澱んだ感情を吐き出したせいか、清々しい気分になってくる。大変だったが、悪くない一日だった。辰巳に乱暴されたことよりも、過去の恋にケリをつけることが出来たという、達成感と開放感の方が大きいのだろう。
「のんきな奴だ。襲われそうになったくせに」
隣に立つキングが、同様に空を見て言った。
「未遂だもん」
「ふん。警戒心のない奴だ。俺は生きた心地がしなかったぞ」
「それは……ごめん。おれがキングの忠告を聞かずに辰巳さんと温泉に来たりしたから……」
リスオは目を伏せる。
「ばか。あんなのただの嫉妬だ」
「えっ、そうなの?」
ぱっと視線を上げ、キングを見た。なめらかな彼の頬がうっすらと林檎色に染まっている。
「当たり前だろう。恋人が他の男と旅行するなんて、許せるものか」
ぴくん、とリス耳が反応する。先程から、キングは『愛している』とか、『恋人』とか、こちらが恥ずかしくなるような発言ばかりしているが、その本当の意味はなんなのか。
(こいつ、もしかして、もしかしなくても……おれのことが好きなのかな……)
リスオはドキドキしながら唇を開く。
「こ、恋人って……おれ?」
「分かりきったことを言うな」
「おれ達……付き合ってるの?」
「あのなあ……。お前は好きでもない相手と、キスやそれ以上のことをするのか」
呆れたような顔でキングに聞き返された。
「まさか、しないよ。ただ……その、こ、告白とかされてないから、勘違いだったら恥ずかしいなと思って……」
リスオはぼそぼそと言う。
「して欲しいのか」
「何が……?」
「告白」
「……」
こくん、とリスオは頷いた。
(聞きたい、キングの口から、おれのことを、どう想っているのか……)
心臓がますます早鐘を打つ。緊張と期待で喉が渇き、指先が震えた。
「仕方のない奴だ」
キングは長い溜息をつくと、リスオをぎゅっと抱きしめた。つま先立ちになるくらい、きつく抱擁されて、リス耳の側で甘いテノールが響く。
「好きだ、リスオ。初めて会った時から、お前が好きだった」
キングが言った。
胸の奥にある柔らかい何かがキュンとくぼんだ。
(キング――……)
「ほ、本当に?」
「ああ。一目惚れだった。絶対に逃したくないと思ったから、クリスマスケーキ作りを依頼して、無理やり同棲に持ち込んだ。リスオは、見た目はちんまりしてて可愛いくせに、意外と気が強くて、跳ねっ返りで……。でも本当のお前は健気で、優しくて、泣き虫だ。一緒に住んでいても、俺の気持ちに全然気がつかないくらい、あの変態教師のことを引きずっていた」
「それは……。で、でももう終わったことだから」
「ああ。それを待っていた。あいつがお前の中で過去になる瞬間を……。今なら言える。やっと届く。――お前が好きだ。愛している」
「キング……」
「一生側にいろ。必ず幸せにする。だから俺の妻になれ」
キングが紫水晶の瞳でまっすぐリスオを射貫いた。
「……っ」
なんて偉そうな告白だろう。けれど不思議と嫌ではなかった。むしろ暖かな感情が湯のように溢れ、胸を満たしていく。
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