それからの出来事は一瞬だったはずなのに、やけに長く感じた。 （ぶつかる！） 　すぐそこまで黒い車が迫った瞬間、リスオは反射的に目をつぶった。逃げきれないと思った。しかしキングは違った。間一髪で異変に気がつき、リスオを抱いた状態で車を躱｛かわ｝す。二人は受け身もとれずに硬いコンクリートに転がった。 「っ！」 　キングが庇ってくれたせいで、どこも痛くは無かったが、倒れた衝撃に声が漏れる。 　キキィィッ、と耳障りな音が響く。ターゲットを仕留め損ねた蛇田が直前でブレーキを踏んだのだ。一瞬の後ガシャァン！　と心臓が止まるような派手な音がした。黒い鉄の塊が旅館のガラスを突き破ったのだ。地面に散らばった透明な破片が電気を反射してチカチカと瞬く。 「キャーッ！」 「おいっ大変だ。車が突っ込んできたぞ！」 　従業員と利用客の、悲鳴やどよめきが聞こえる。 「ちっ！　最悪のタイミングだ。――リスオ、怪我はないか？」 　キングはすぐに状況を把握したようだ。普段から蛇田の襲撃に備えていたのだろう。 「う、うん。大丈夫……」 　リスオはなんとか頷いた。体験したことのない様子に、鼓動が早鐘を打つ。 「危ないから下がってろ。俺の側を離れるな。今日こそ奴と決着をつけてやる」 　キングは立ち上がる。その瞳は怒りに燃えている。待って、と言おうとしたが、しかし突然始まった光景に、リスオは目を見張った。 　キングが完全獣化を始めたのだ。まるでＣＧでも見ているかのように、彼の長身がぐにゃりと曲がる。そして数秒後には、キングの代わりに、一頭の勇ましいライオンがそこにいた。顔の周りを、金色のたてがみが覆っている。ずっしりとした重そうな体躯に、尖った爪のある四肢と、ひょろりと長い尻尾が生えている。大きな顎を持ち、口から二本の鋭い牙が伸びていた。平べったい鼻に、小さな三角の耳。そして吊り上がったスミレ色の両眼。間違いない、キングだった。ゆったりと歩く姿は、堂々としていて、まさに百獣の王だった。 　ライオンが赤い口の中を丸見えにして、威嚇するように、車に向かって吠えた。 「ガオオォォッ！」　 　まるで花火のように、腹の底を震わせる荒々しい声だった。 「すごい……」 　リスオは呟いた。初めて見るキングの本来の姿。想像していたよりも、ずっと格好良くて、強そうだ。 　夢中になって見ている一方で、旅館に突っ込んだ車がバックして、ハンドルを切り返し、前方をこちらに向けた。運転席側のパワーウインドウがゆっくりと下がり、黒ずんだ皮膚の蛇田が顔を出す。 「げへへ……ようやく会えたな、獅子倉。オレの恋文は喜んでくれたかな？」 　ガラガラの声で蛇田が言った。 「ふん。とうとう姿を現したな。ゲス野郎」 　ライオン化したキングが答えた。 「オレを不幸にしたのはお前だよぉ、獅子倉。共に地獄へ行こう」 「一人で行け。俺はこの世に未練がある」 「えーっ。寂しいなあ。寂しいよう……。ねえ、死んだら楽になるのかなあ。もうクスリを買う金がないんだよお……。獅子倉くぅん、一緒に逝こうよ。あははははアハハハハ」 「シャブ中め。……ラリってやがる」 　キングが目を細めた。 「もう生きててもしかたないよお。だから殺しちゃおっかなー。お前もそこのリスも。二人とも車に轢かれたカエルみたいになっちゃえよおおおおっ！」 　再び車が襲ってくる。しかし至近距離すぎてスピードが出ていない。ライオンはひらりとジャンプして鉄の塊を躱｛かわ｝すと、後ろから運転席へ回り込み、後ろ足だけで立ち上がった。 「ぎゃあっ」 「ガォウッ！　ガウガウッ」 　開いた窓に両前足をかけ、牙を剥いた頭を突っ込んだ。ライオンが奴の腕に噛みつく。尖った歯が何本も蛇田の腕に刺さる。服が裂けて血が溢れた。 「ぎゃあああ、痛｛いて｝え！　くそッ、出て行けっ。畜生のくせに！」 　蛇田は、片手で乱暴にハンドルを切り、ライオンごと旅館の外壁に体当たりした。そのままキングを右側面に押しつけたままギギギギギッと引きずり回す。 「ガオ、ガオッ」 　キングが顔をしかめてのた打つ。艶のある背中の金毛が赤く滲む。壁に横一直線の鮮血の跡がついた。 「ああっ！」 　リスオは顔を真っ青にして叫んだ。キングが痛めつけられている。 （もう止めて……！） 　猛烈な痛みのはずなのに、獅子は蛇田に噛みついたまま、決して離れようとしない。顎に力を込め、腕ごと頭をブンブン振り回す。ボキッと骨が折れる嫌な音がした。 「ぎゃあぁぁ！」 　蛇田が顔をしかめた。奴は反射的にハンドルから両手を離し、アクセルを踏み込んだ。車体は自然と真正面の柱へ激突した。 　ガシャァァンンッ！！　耳をつんざく破壊音が響いた。 「キング！！」 　リスオは金切り声を上げた。柱は曲がり、車体はバンパーが無残にひしゃげていた。フロントガラスに蜘蛛の巣のようなヒビが入っている。白いエアバックが膨らんでいた。 「キング、どこ……っ」 　リスオが目をこらすと、獅子は無事だった。地面に四足で立っている。間一髪で衝突から逃れ、飛び降りたらしい。しかし息が荒い。背中の傷が痛むのだろう。 「うう……。痛いよお……お母ちゃーん……」 　車の中で、蛇田がみじろぎした。額から血を流して泣いている。奴はドアを開けて外に出ようとするが、ぶつかった際に扉が変形したせいか、脱出できない。ガン、ガンと拳で内側から叩いている。 「開かない！　出してくれぇ、誰かーっ、オレを助けてよお」 　大粒の雫を流して、蛇田が訴えた。まるで赤ん坊のようである。いや、乳児の方がまだましだった。今程まで殺意を持ってキングとリスオを襲おうとした男と同一人物とは思えない。きっとクスリで情緒が崩壊しているのだろう。 　獅子は惨めに泣き叫ぶ蛇田に溜息をついた。 「全く……仕方のない奴だ」 　とぼやくと、完全獣化を解き、元の姿に戻った。背中が無残に服が破け、剥けた皮膚から血が滴っている。キングは車体に片方の足の裏をつけ、歪んだドアを力一杯引いた。奇妙な鉄音がして、扉がわずかに開く。そこから腕を入れ、自分の肌に傷がつくのも構わず、めそめそする蛇田を引っ張り出した。ゴロッと転がり出てきた奴は、おいおいと泣きながら土下座をする。 「ありがとお～、獅子倉ぁ。オレを助けてくれて、感謝するよお。お前は神様だ」 「ふん。勝手に言ってろ。――いいか。もう二度と俺達の前に顔を出すな。今度会ったら……日本海に鎮めてやる」 　キングは奴を見下ろしながら言った。冷たい声だ。 「分がりまじだぁー」 「ならさっさと病院にでも行くんだな。まあ……まずは警察か」 　フン、と鼻を鳴らし、キングは踵を返す。成り行きを見守るしか出来なかったリスオと目が合うと、ゆっくりと微笑んだ。 「終わったぞ」 「キングっ」 　リスオは震える足で立ち上がり、彼の側に駆け寄った。そのまま抱きつきたかったが、キングの背中の負傷を思い出し、寸前で留まる。まだ心臓がバクバクしていた。 「だ、大丈夫？　怪我はっ？　救急車！」 「落ち着けって。かすり傷だ」 「でも……！」 「いいから」 　キングはリスオをぎゅっと抱きしめた。 「言っただろ？　俺が守ってやるって」