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「だけど……っ」
密着すると錆の匂いがする。リスオは早く彼を手当しなくては、と気が気でない。
「お前のためなら命だって惜しくない。愛してるからな」
「ばか。無茶ばっかりするんだから……っ」
我慢できずに涙が溢れた。自分をこんなに慕ってくれる人がいる。守ってくれる相手がいる。
(良かった、キングが無事で。お前がいなくなったらおれは……)
その時、リスオはようやく自分の気持ちに気がついた。
(おれは、おれはキングが好きなんだ。心の底から……。こいつがいないと生きている意味がない)
(いつの間にか、こんなに好きになっていたんだ……)
どうしてすぐにこの甘酸っぱい感情に気がつかなかったのだろう。
なぜ辰巳を忘れることが出来たのか。やっとリスオは理解した。
キングのおかげなのだ。彼が忘れさせてくれたのだ。
もちろん時間という薬の効果も、リスオ自身の成長もあっただろう。しかしリスオの時計はキングと出会ったから動き出したのだ。
あの幸運のライオンは、リスオの錆ついた歯車を強引に進めてくれたのだ。そう、年下のくせに我が儘で、偉そうで、なのに本当は孤独なあの百獣の王――。
(そうかおれはキングが好きなんだ……。もう新しい恋は始まっていたんだ……)
(こいつを失うのなんて、耐えられない。キングのいない世界に戻りたくない)
と強く思う。
あの空虚な心を埋められないままケーキを作る寂しい日々。辰巳の面影を求めて歩く街。どれも、いま考えれば虚しい人生だ。例え天職を得ていようとも、自分が心から好きな相手と愛し合えない毎日は、やはり孤独だ。魂の片方を亡くしたような淋しさが、リスオの奥底にあった。
しかし、運命のひとは、自分の片割れは、ある日突然なんの脈絡もなく現れた。リスオの働く洋菓子店の包装紙がダサいと文句をつけてきたのだ。
そんな最悪の出会いって、あるだろうか、とリスオは思う。魂の番{つがい}なら、もっとロマンチックに出逢いたいものだ。
(でもそれがおれ達らしいのかも)
とリスオは思う。
(好きだよ、キング。大好きだ。おれの大事な人は、こいつだったんだ――……)
この気持ちを伝えなくては。いますぐ自分の熱い想いを知って欲しいという欲求が膨らんでくる。しかし今は緊急事態の最中だ。告白するのは落ち着いてからでも言い。まずはキングの手当が最優先である。
「キング。さあ、行こう」
リスオはそっとキングの腕から身を起こした。いつまでもこの温もりを味わっていたいが、しかし全ては事が片付いてから。いくら直情型のリスオでも、そのくらいの分別はある。
「……っ。ああ」
動こうとしたキングが、顔をしかめた。その場にうずくまる。傷が痛むのだろう。
「ああっ、ごめん! ――誰か、手を貸し下さい!」
リスオは、不安そうに成り行きを見守っている人々に向かって叫んだ。
「……っ、悪い……」
「いいよ。キング……」
その時だった。キング越しに、先程まで地面に土下座して這いつくばっていた蛇田が、ブルゾンのポケットに手を入れるのが見えた。
(え……?)
そこから二つ折りにしたナイフを取り出す。パチッと鋭い刃を伸ばした。全てがスローモーションだった。奴はリスオと目が合うと、ニヤリと笑った。爬虫類の瞳が光っている。蛇田と視線が絡んだ瞬間、リスオは相手の考えを理解した。奴は最初からこの時を狙っていたのだ。車で追いかけ回したのは、すべてパフォーマンス。奴の計画の最高潮はこのいっとき、キングの隙をついて彼をナイフで刺すことだったのだ。蛇田が立ち上がりこちらに向かってくる。ナイフの切っ先がキラリと光った。まっすぐキングに向いている。奴の動きには迷いがない。殺すつもりなのだ。
「危ない――……!」
リスオはとっさにキングを突き飛ばした。両手を広げ、彼を庇う。キングは急に動いたリスオにハッとしたように目を見開いた。しかし遅い。怪我で身体が自由に動かせないのだ。蛇田は獲物の前に遮蔽物が飛び出してきても揺るがなかった。むしろ計画通り、とでもいうように、そのままスピードを落とさずに突っ込んでくる。リスオは反射的にぎゅっと目をつぶる。ドンッ! と奴がリスオの腹ぶつかってきた。硬いものが皮膚に食い込んでくる。ちりっと花火が散ったような気分だった。肌が裂けた感触がする。しかし、想像していたよりも痛みはなかった。辰巳の淫術がまだ残っていたのかも知れない。ぼんやりとした衝撃だった。
(おれ刺された……)
自分がゆっくりと地面に倒れていくのが分かる。キングが驚愕に瞳を見開いていた。目頭が裂けそうだ。
蛇田が「やってやったぞ」と高笑いしている声が、遠くで聞こえた。周りで見ていた人たちが駆け寄り奴を拘束した。羽交い締めにしている。
「リスオ!」
キングが何度も自分の名前を呼ぶ。大好きなテノールだ。彼に抱き起こされた。宝石のように綺麗な紫色の双眸が血走っている。
「リスオ! リスオッ!」
キングが激しく動揺しているのが分かった。顔が青ざめている。リスオは朦朧としていた。彼が心配で、そっと手を伸ばした。腹から暖かい何かがたらたら溢れていく。服が湿り、丸く広がる。
「らしくないよ、キング……。落ち着いて……」
リスオは震えるキングの頬を指でなぞった。赤黒い跡が彼の白い肌についた。
「喋るな! すぐ救急車が来るからっ」
「それには、キングが乗って……。おれは、大丈夫……だから……」
「馬鹿野郎! 何やってんだよ、お前……なにやってんだ……っ」
彼の美声が遠くに響く。目の縁に涙が溜まっていた。キングはリスオの手をぎゅっと握った。骨が折れそうなくらい強い。リスオはつい口角を引き上げた。なぜか笑みが零れたのだ。
「ふふ……キングが、泣いてる……。可愛い……」
「ばか……っ」
「おれ、お前を守れた、かなぁ……。ちょっとは、年上らしいこと……出来た、かな……?」
「頼むから、もう喋らないでくれ……!」
ぽろぽろとキングが涙を溢れさせる。透明な雫が綺麗だな、とリスオは思う。
「キング、おれね……言わなくちゃ、ならないことが……あるんだ。キング、に……伝えたい、ことがある……。遅くなっ、ちゃった、け、ど……。やっと、気づいた、んだ……ほんとう、の気、持ち……」
「リスオ……! もういいから、何も言うな……っ!」
キングが整った顔をくしゃくしゃにして懇願した。その輪郭がだんだんぼんやりしてくる。まるで霞がかかったみたいだ。じょじょに寒気も襲ってくる。
「キング……さ、寒い」
ガタガタと歯が鳴る。どうしたのだろう。体中の温度が一気に下がったみたいだ。
「待ってろ。すぐ暖かくしてやる」
キングがコートを脱ぎ、リスオをくるんだ。更に抱き寄せられて、彼の温もりにホッと息をつく。
「キング……。キング……」
リスオは何度も呼びかけた。
「リスオ、しっかりしろ。すぐ手当てしてもらえるからな、大丈夫だ。俺がついてる」
「キング……。キング……。側にいて……」
「ああ。いる。ずっとついてる」
「キング……。好き……」
リスオはつぶやいた。口を動かしたつもりだったが、声はかすれて彼には届かなかった。
「リスオ、リスオ、リスオ――……!」
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