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第2話 落とし物

「お前、Ωだろ!!」      校舎中に響き渡るような飛鳥の声に、『Ω』という言葉で、周囲がざわついた。   「Ω? どこ?」 「うわ、マジだ」 「あれって男? 女?」 「Ωならどっちでも変わんないでしょ」 「結構可愛いんじゃね?」    飛鳥が糾弾でもするように指を指しているから、すぐに少年の存在に気づかれてしまった。  こっそりと目を向ける奴もいれば、品定めでもするように無遠慮に眺める奴もいる。いずれにせよ、彼が意図しない形で好奇の視線に晒されていることには変わらないだろう。  けれど、少年は相変わらず、不思議そうな表情のまま無防備に首を傾げている。   (Ω……? この子が?)    なるほど、と妙に納得した。思わず目を奪われる可愛らしい顔に、さらさらの黒髪、雪のように白い肌と華奢な身体。そして、珍しい桃色の瞳も、Ωだというのなら、すんなり納得できる。αと同様、Ωの性を持つ者は、身体的に珍しい色が現れ、他者を惹きつけやすい容姿を持って生まれると言われている。   (じゃあさっきの香りはΩの魅了(フェロモン)……?)    思春期を迎えたΩは、ヒートと呼ばれる発情期が現れるようになって、特殊な性フェロモンを放出する。本人の意思とは関係なく撒き散らされるそれは、αやβを強烈に惹きつけてしまう。特に成長期はヒートも魅了(フェロモン)も安定せず、日常的に溢れてしまうこともあるということは聞いたことがあった。   (……あれ? もう消えてる? 気のせいか?)    掠めるように鼻腔を擽って消えていった香りは、もうどこにも感じ取れなかった。   「なんでΩがこんなとこウロウロしてんだよ! 気持ち悪いっ!」 「……飛鳥」    自分でも驚くほど暗い冷たい声が出ていた。  飛鳥がびくりと震えて、振り向く。さすがに言い過ぎたとは思っているのか、その大きな目には後悔が滲んでいる。  けれど、それで許せる範囲は超えていた。   「嫌なこと言うなよ。失礼だろ」 「だ、だって! こいつが雲雀の手離さなかったから!」 「違うよ。今のは俺が」 「(はるの)!」    凜、とよく通る声が響いた。飛鳥のような怒鳴り声ではなかったのに、たった一声でざわついていた周囲も一気に静まり返る。   「月詠(つくよ)ちゃん……」    目を向ければ、予想と違わない少女の姿があった。  長く艶やかな黒髪を靡かせて、すらりと長い足で歩く姿はまさに百合の花。  端正な顔立ちでありながら、桜色の唇のすぐ下のたった一つ黒子が、彼女を艶やかに彩っている。 『学園の誇る月下の一輪』『百年に一人の美少女』などと称される、桃ノ木月詠だ。  学園でも一目置かれている彼女の登場に、自然と皆、道を開けている。彼女も当然のごとく、その開かれた道を真っ直ぐ突き進み、こちらに向かってくる。    冷静で物静かな彼女が僅かでも声を荒げるのは珍しい。怒りで膨れ上がっていたはずの飛鳥は、今や小さくなって震えている。   「何をしているの?」 「俺とぶつかっちゃって」    月詠ちゃんの声はびっくりするほど鋭く冷たかった。  飛鳥はいつだって強気だけど、強いわけじゃない。今も凍り付いて砕けてしまいそうだった。  自業自得といえばそれまでだけど、元はといえば俺がΩの少年とぶつかったせいだ。  飛鳥への問いだということはわかっていたが、思わず間に入ってしまった。    月詠ちゃんはいつでも正しく公平だ。αの巣窟ともいえる西校舎で、迷い込んだ子羊のΩをいじめていたら、黙ってはいられないんだろう。  俺も月詠ちゃんの美貌と迫力にはお手上げだが、まだ仲はいい方だ(と俺は思っている)。話を聞いてもらえるかもしれない、と僅かな可能性に賭けて、これ以上刺激しないように笑顔を向けた。   「……一方的に怒鳴りつけているように見えたけれど」 「うん、ごめん。良くないよな。俺からも言っておくから」 「……」    月詠ちゃんがちらり、と飛鳥に視線だけ向けた。飛鳥が怯えて俯くと、もう一度俺に視線を戻す。  月詠ちゃんの何時でも凜々しく、花咲くような桃色の瞳は今、一段と鋭さを増している。    ――あれ? 桃色の目?    ふと何かが引っかかった。  けれど、考える前に月詠ちゃんが視線を逸らしたので、はっとして次の言葉を待つ。   「……まあ、貴方がそう言うなら……」    ため息交じりの言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。納得はしていないけれど、俺を信頼してくれているのだろう。それが少し嬉しかった。   「行きましょう、陽」 「あ、うん」    月詠ちゃんは、散らばった本を拾いながら彼を促した。  彼は本を抱えて立ち上がると、俺に向けて、ぺこりと頭を下げた。  驚いて見つめるが、少年は何もなかったみたいに、にこりと微笑んだ。   「お邪魔しましたぁ」 「あ、ああ、いや……」    ゆったりとした微笑みに相応しい、のんびりとした口調と柔らかな声だった。  月詠ちゃんと二人、仲睦まじく寄り添って歩いて行く。   「今日はどうしたの? 用があるなら私が行ったのに」 「図書館に寄ったから、月詠ちゃんのクラスもどんな感じか見たかったの」 「そう……。でも、だめよ。一人でこんなところに来ちゃ。αも多いのに」 「ごめんねぇ、月詠ちゃん」 「陽にもし何かあったら私……」    珍しく月詠ちゃんが俯き、声が震えた。   「相手に何をするかわからないから」 「ごめんねぇ、月詠ちゃぁん」    Ωの少年は間延びした口調で答える。  けれど、じろじろと不躾な視線を向けていた数名はざっくりと釘を刺されて慌てて目を逸らし、そうでなくともその言葉が聞こえた生徒はみんなビクリと震えていた。   『怖ぇ……! さすが『銀月の女帝』……!!』   (……って思ってんだろうな、皆。俺もだけど。でも……)    雰囲気が異なるせいで気付かなかったが、月詠ちゃんとあの子が並んでみるとよくわかる。二人は非常によく似ていた。瞳の色だけではない。黒子の位置と髪の長さ以外は瓜二つと言っても過言ではない。  疑問を抱きながらも、誰もこれ以上二人を引き留めることなんてできなくて、ただただ見送った。    ***    二人が見えなくなるまで見送ると、張り詰めた空気がふっと緩んだ。  月詠ちゃんの存在は、身も心も引き締める。空気が変わる。俺ではここまで速やかに事を収めることはできなかっただろう。  同じαとして、敵わないなと素直に白旗を上げたのは彼女が初めてだった。   「ひ、ひばり……」 「ん?」    飛鳥は青い顔をして俺を見上げていた。   「ご、ごめん雲雀……で、でも、俺……!」 「……ああ、すぐカッとなるの、良くないな」    飛鳥はわかりやすく肩を落とした。  悪い奴ではないと思いたいけど、Ωの生徒の対して少し棘があるのはやっぱり褒められない。  ……とはいえ、学園全体で見ると珍しいことではないから、影響されているのかもしれない。   「……俺の為に怒ってくれたのは嬉しいけど、もうやめとけよ」 「う、うん!」    あまり落ち込んでも困るので、そう言うと飛鳥は、顔を上げた。  周囲の生徒もそれぞれの日常に戻っていく。    ――でも、俺は。    握り締めていた手を開いて、こっそり目を向ける。  掌には、あの子が身に付けていたブレスレットが残っていた。    月詠ちゃんも同じものを身に着けていた。  品行方正でピアスどころか髪飾り、メイクもしていない彼女には珍しいと思ったからよく覚えている。αなのに首筋をチョーカーで隠していることも、有名な話だ。確かあれも、花の刺繍が施されているものだった。  どちらも、お揃いなのだろうか。   (壊れてなきゃいいけど……)   「ひ、ひばりー?」 「ん、ああ…すぐ行く」    ブレスレットは誰にも見せないように、そっとポケットにしまった。      ――あの子の、    お日様と花の香り。  暖かくて柔らかい手。  穏やかな桃色の眼差し。    ……何故かどうしようもなく愛しくて、懐かしくて、手を離したくなかった。    〝離したらもう二度と会えなくなる〟    そんな予感が全身を駆け抜けて、離してはいけないと本能が告げる。  こんなことは初めてだった。    運命の番は出会った瞬間、惹かれ合うと言う。  そんなおとぎ話を信じてるわけじゃない。  運命と言うには、あまりに穏やかで柔らかく、ほんのりと淡い、残り香のような出会い。  今にも日常に溶けて、消えてしまいそうなくらいに。    ――……まあ、それは置いておいて……。   (……『はるの』かぁ……名前まで可愛いな)    陽だまりの花が咲くような、愛らしい笑顔が頭から離れない。   絶対お近づきになりたい、という決意の代わりに、手の中の『きっかけ』をぎゅっと握りしめた。

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