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第3話 難攻不落
桃ノ木陽。花咲くような桃色の瞳を持つあの子の名前だ。
1年の秋に編入してきた。
中高一貫のこの学園で、編入生は珍しい。それだけでも十分に噂の的になる。
その中でも、彼は特別だった。
自由な校風でありながら、名のある家柄の関係者や各界重鎮との関わりが色濃く、野心ある秀才が集まる群雄割拠の学園で、入学当初から常に頂点に君臨し続けているのが桃ノ木月詠であり、そんな『銀月の女帝』の双子の兄。αと同じく、希少なΩの性。
当然、注目を集めていた。
……らしいが、月詠ちゃんの鋭い眼差しを前にしては、大っぴらに騒ぐこともできなかったそうだ。
そのせいか、彼には謎が多い。
わかっていることは三つだけ。
一つ目。本が好きらしい。
図書館で静かに佇んでいる姿や本を読んでいる姿がよく目撃されている。ぶつかった時もたくさんの本を抱えていたから、きっと本当に好きなんだろう。
しかし、図書館で声を掛けようと後を追うと、本棚の森の奥に姿を消すらしい。それはまるで『図書館の妖精』のようだとか。
二つ目。園芸部に所属している。
この学園の庭園や花壇は四季を通しても恐ろしい程変化がなく、整えられ過ぎた美しさはむしろ不気味でさえあった。しかし、それがこの数か月で、四季折々の様々な種類の花や草木が咲き誇り、絶えず変化している。彼が入部してから、魔法でも使ったように変貌を遂げたらしい。それを称え、『庭園に舞い降りた奇跡の花』と呼ばれているとか。
三つ目。『百年に一度の美少女』と謳われた月詠と瓜二つの容貌を持ち、学園屈指の美少年であることは疑いようがない。
それに加えて、穏やかな性格に無防備な雰囲気、華奢な身体。Ωという性を持つとなれば、本来なら思春期の狼たちが放っておくはずがない。しかし、どういうわけか彼は、清純を穢されることなく過ごしている。名立たる狼たちが挑んでも歯牙にもかけない様子から、『難攻不落の城』と噂されているとか。
「……いや、結局何?」
「さ、さあ……?」
噂好きな友人から話を聞いても、桃ノ木陽くんのことはよくわからなかった。
確かにこの学園は、生徒や教員にいつの間にか変なあだ名がついているが、それにしても多い。統一してほしい。
けれど、あだ名の数ほど、皆の注目を集めているということなのかもしれない。そして、その統一性の無さは、正体を掴むことができないことを意味している。
……そう、噂や人伝で聞いたって、意味がない。
本当の彼を知るには、直接会うしかない。
東校舎の前に来て、雲雀は緊張を吐き出すように息をついた。
原則、α性の自分は東校舎への出入りは禁止されている。
特別な事情がなければ、すぐに追い出されるだろう。
(……落とし物を届けに来ただけ)
うん、そう。だから、おっけー。
何度か頷いて、雲雀は東校舎へ足を踏み入れた。
***
東校舎に入るのは初めてだった。
構造は同じはずなのに、まるで別世界に来たように錯覚してしまう。
特に、Ωクラスの階は踏み込んだ瞬間、甘く、華やかな香りがした。お花畑か、お菓子の家に入り込んだみたいだ。
多くの生徒は線が細く、睫毛が長く、可愛らしい顔立ちでお人形さんのようだった。男も女もいるはずだけど、どちらがどちらかは見た目ではわからない。いや、考える必要なんてないのかもしれない。性別なんて関係ない愛らしさが彼らにはあった。
ここだけ『妖精の国』と呼ばれているのも納得だ。
「……ひゃ……っ」
そんな子たちが、自分を見た途端驚いて小さな悲鳴を上げる。白い頬を薔薇色に染め、大きく透き通るような瞳がたっぷりと潤む。細い肩を震わせて、数人で寄り添いながら、そっと離れて足早に逃げていく。
図書館や食堂のような共有施設でも起こり得ることだが、何度同じことがあっても慣れない。静かに傷つき、胸は痛む。
(……そうだよな。αがいたら怖いに決まってる。早く返して、帰ろう)
でも、陽くんの連絡先くらいは聞きたいなぁ、月詠ちゃんは絶対教えてくれなさそうだし、などと考えながら、できるだけ他の生徒と目を合わさないように心がける。興味ありませんよ、何もしませんよ、と澄ました様子で、彼の姿を探した。
「桃ノ木くんっているー?」
(……は?)
軽薄な口調と繊細なこの空間に相応しくない無遠慮な声に、雲雀は眉を寄せた。
視線の先には、配慮のない声の大きさに肩を震わせて身を寄せ合う妖精のような生徒の他に、自分と同じ西校舎の制服を身に纏う生徒が3人いる。見覚えがある。あまりいい印象はない先輩たちだった。そして、今この瞬間、彼らへの印象は底値を記録した。
彼らの口からあの少年の名が発せられたことが腹立たしい。
彼らが、教室を覗き込んでいると、一人の生徒が廊下に出てきた。
あの日と同じ、無防備な表情で彼らを見上げ、首を傾げている。
「こんにちは、どちら様ですか?」
相変わらず柔らかく落ち着いた声で、怯えた様子は見られない。それに少し安心する。
けれど、その安堵は、次の瞬間には弾けて消えた。
「うっわ! マジで月詠ちゃんにそっくり!」
「しかもΩなんだって? 最高じゃん!」
「?」
陽は彼らを一人一人見つめて、「なぁに? どうしたの?」と首を傾げている。
それを見て、先輩の一人がにやにやと笑みを浮かべた。
「いいねー、なんか隙だらけって感じで」
「ねーねー俺たち運命感じない? 感じるよねー?」
「そうそう、俺たち運命の番ってやつかも」
「俺も俺も」
興奮した彼らが、猿のように見えて、雲雀は表情を僅か歪め、嫌悪を露わにした。
多くのαにとってそうであるように、雲雀にとって『運命』という言葉は特別な意味を持つ。
〝それ〟によって、本能を突き動かされ、一生を縛られることもある。愛にも呪いにもなる、恐ろしくて美しい言葉。
それが穢された気がして、思わず、奥歯を噛みしめる。
けれど、陽は「んー?」と首を傾げると、にこり、と笑った。
自分たちの言葉への『肯定』と受け取って、彼らは「お」と釣られたように笑みを浮かべる。
「あなたたちは、おれの運命じゃないと思います」
にこにこと、微笑んだまま陽は答えた。
彼らは、自分たちが望んでいた答えではなかったことに、少し遅れて気付いたようだ。やや不貞腐れたように顔を見合わせて、改めて陽に視線を戻した。
「……まあまあ、そう言わないでさ」
「ちょっと試してみようよ。すぐわかるって。な? 来いよ」
一人が、陽の腕を強く掴んで引き寄せる。無遠慮な力に、陽の身体がぐらりと揺れると、周囲で見守っていた生徒から小さく悲鳴が上がった。
「いっ……いででで!! ?」
次に悲鳴を上げたのは、陽の腕を掴んでいた男だった。
彼の腕は陽から離れ、雲雀によって逆に捻り上げられていた。
咄嗟に男が離れると、簡単に雲雀は腕を離した。
「いってぇな! なにすん……ひ、雲雀?!」
「……あんたら、まだこんなことやってんのかよ」
「な、なんでここに」
「何でもいいだろ」
雲雀を見て思わず3人は距離を取った。その隙に、雲雀は陽を背に隠すようにして、彼らの前に立ちはだかる。
雲雀が鋭い眼差しで睨むと、彼らは小さくなって目を逸らした。
「いい加減学習しろ。次は停学じゃすまねぇぞ」
「て、てめぇ……」
「バカやめとけ! こいつ八千代んとこの……」
彼らの脳裏に、学園の荒くれ者をまとめ上げ、『猛虎』だの『暴れ龍』だの『番長』だのと呼ばれる男の姿が過る。
泣く子もさらに泣き喚く、強面の屈強な男。
彼は言う。『俺の心友に手を出すな』と。
心友とは、今目の前にいる雲雀のことだ。
小さく、チッと舌打ちが聞こえた。彼らは踵を返して逃げ去っていく。
周囲の生徒の眼差しに「何見てんだよ!」と当たり散らしながら、最後まで無様な姿を晒していった。
「……ったく。……?」
呆れたようにため息をついていると、背中をつん、つん、と控えめにつつく存在に気付く。
振り向くと、陽が雲雀を見上げて、にこ、と微笑んだ。
「ありがとう」
「えっ、ん、いや、別に」
どういたしまして、とたったの八文字も出てこない。
心から微笑んだ彼はこんなにも可愛い。
花咲くような笑顔を見て、ああ、先ほど彼らに向けていた笑顔は愛想笑いだったんだ、と悟る。
あの時と同じ、お日様と花の香りが微かに舞う。やっぱりすぐに消えてしまったけど、間違いなく彼の心が咲いた証拠なんだ。
(……少しは期待していいってこと?)
心が震えて、彼をじっと見つめる。
雲雀の期待で膨らむ想いなど知らず、陽は熱い眼差しを受けても、ゆったりと首を傾げていた。
「? ……なぁに?」
「あっ……ああ、そうだ。えっと……」
当初の目的……ではないが、彼と会う為の理由にした物を思い出して、ポケットに手を入れる。
けれど、その前に、周囲の眼差しがちくちくと肌を刺激していた。ざわざわと囁く声も聞こえている。
目立つ行動を取ったことを今さら悔やむが、騒ぎ聞きつけて教員が来ても困る。
「……ごめん、ちょっと中庭出て話せる? すぐ終わるから」
「? うん」
雲雀が先に歩き出すと、陽はついてきた。
時々ちらりと振り返ると、置いて行かれないように、と足の長さの差の分、雲雀より多く足を動かしている。
(頑張ってる……)
生まれたての雛が親鳥の後を追うように、一生懸命雲雀を追う陽があまりに愛らしくて、雲雀は締め付けられる胸をぎゅうっと上から掴んだ。
***
中庭に出ても、こっそり窓から覗いている視線が気になるが、雲雀は諦めることにした。
「話ってなぁに?」
「あ、ああ。……この間はごめんね」
「?」
「俺がぶつかったせいで怒鳴られて、怖かっただろ?」
「全然平気だよー」
陽は雲雀の言葉に首を傾げていたが、にこ、と笑った。
穏やかな笑顔に、ひとまずほっとする。
「そっか、よかった」
「それでここまで来てくれたの?」
「え? あー……」
陽が無防備な表情で見上げている。
「……まあ、そんなところかな」
――お近づきになりたいから、なんて言えないな。
彼の清らかさが眩しくて、視線を逸らして答える。
お日様の下だと、より一層輝いて見えるのは気の所為ではないだろう。
「そうだったんだぁ」と彼は少しも疑わずに受け入れると、また微笑んだ。
「優しいんだね」
ふわりと花が舞う。お日様の日差しの中で、微笑む彼は花のようだ。気付けば自分も頬が緩んでしまっていた。
「……あと、これ」
「? ……あ!」
雲雀が差し出したブレスレットを見て、陽は目を丸くした。
「ぶつかったとこに落ちてたんだ。桃ノ木のだよな?」
「そう! 月詠ちゃんとお揃いなの!」
「……」
――うん、ごめん、知ってた。
口に出さず、雲雀はにこり、と微笑みで返す。
雲雀の複雑な心境も知らず、陽はブレスレットを手に取るとぎゅっと大事そうに抱きしめた。
「見つからなくて困ってたの。ありがとう! ……えーっと」
「ああ、俺は菖蒲堂雲雀…」
「ありがとー雲雀!」
「ん、んんッ……」
満面の笑みを目の当たりにし、雲雀はぎゅうっと口を結んだ。心の声がそのまま出てきそうになって、ぎゅっと口を閉じる。耐えた代わりに、外には出せなかったときめきがきゅんきゅんと心臓を締めつける。
――いきなり名前呼び……。そういうタイプなのかな……。それとも……?
名前で呼ばれることの方が多いのに、彼に呼ばれると愛おしさが込み上げる。
彼と近づきたい。彼からも、近づいてきてほしい。
「……俺も、陽って呼んでいい?」
目を大きく見開いた後、陽は嬉しそうに笑った。
「……うん、いいよ!」
(よっし!!)
雲雀は穏やかな微笑みを浮かべたまま、心の中ぐっと拳を握った。
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