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第6話 垣間見る

 多くの生徒を抱える学園の食堂は広く、大きい。誰もが一度は聞いたことのあるような有名なレストランも入っていて、テラス席まで用意している。最初こそ驚き、感動したものだが、一年も経つころには日常に溶け込んでしまった。  けれど、見慣れた光景の端に、雲雀の心を突き動かす存在が入り込めば話は変わる。    食堂自慢の庭園が眺められる、曇り一つない大きなガラス扉の近くの席に、陽がひっそりと座っていた。  少し俯いて本を読んでいる。伏せがちの睫毛は瞬きの度に揺れて、春の日差しを受けてつやつやとした黒髪が天使の輪を生み出していた。まるでそこにだけ、日差しが差し込んでいるかのように、淡く浮かび上がる。幻想的で愛らしい姿だ。  雲雀は思わず、引き寄せられるように駆け出した。近くまで来たら、驚かさないようにゆっくりと歩くと、声をかける前に陽が顔を上げた。   「……! 雲雀!」    目を丸くした後、陽はぱぁっと笑う。  彼の背景に花が咲き誇る幻覚が見えるのと同時に、花の香りがふわりと舞って、雲雀も思わず頬が緩んでしまった。 (……魅了(フェロモン)って幻覚作用もあるのかな? なんてな……)  と頭の隅で、少し本気で考えた。   「ひとり?」 「ううん。月詠ちゃんを待ってるの」 「そっか。隣いい?」 「いいよー」    陽がどうぞどうぞ、と椅子を引く。  つい先ほどの自分の無礼を何も知らない陽に対して、申し訳なさでちくちくと心が痛む。痛むが遠慮なく座る。   「陽も食堂で食べてんの知らなかったなー」 「ううん、いつもは庭園とか、園芸部の部室とか、いろんなとこ。今日はお弁当」 「お弁当? どこ?」 「これです!」 「えっ、小さっ!?」 「?!」 「あ、ごめん。可愛いな弁当箱」    雲雀がびっくりすると陽も雲雀の声に驚いて目をパチクリさせていた。  雲雀が慌てて褒めると、陽は目の前でお弁当を掲げ、誇らしげにニコニコと微笑む。  何がそんなに誇らしいのだろう? と考えつつも、それが何とも言えない愛らしさで、ずっしりと落ち込んでいた気持ちも、軽やかに浮上していく。   「雲雀! どこー?!」 「あれ? 呼んでるよ?」 「あ」    置いてきた友のことをすっかり忘れていた。気付かなくていい、と思ったが、いくら気配を消しても、雲雀のように珍しい色と優れた容姿の生徒が一般生徒に紛れることは、難しかった。  案の定、すぐに見つかってしまう。   「ここにいたのか雲雀! なんで先に…って桃ノ木陽!?」 「? こんにちは」    どちら様でしょうか? と陽が首を傾げる。ほんの数日前に怒鳴られたことなど、彼の心には何一つ残っていないようだ。  飛鳥には答える余裕などなく、わなわなと震える人差し指を陽に向けている。   「な、なんでそいつと…!!」 「わぁ本物の陽くんだ!」 「?? ほんもの……??」    飛鳥を追ってきた優介は、陽を見つけてぱあっと瞳を輝かせる。陽はまた首を傾げて「ほんもの、とは……?」と大きな目をぱちぱち、とした。優介は頬を染めながらふわふわと跳ねて近づき、にこにこと微笑む。   「あ、はじめまして! 俺は雲雀と同じクラスの中村優介です!」 「よろしくね、優介くん」 「わー! 声も可愛いなー!」 「?」    普段大人しい優介が表情を緩ませて、珍しくはしゃいでいる。陽は首を傾げて、不思議そうに優介を見上げていた。   「嬉しいなー。陽くんとお話したかったんだぁ♡俺も隣いい?」 「どうぞー」 「失礼しまぁーす!」    雲雀にしたのと同じように、陽は隣の椅子を引いた。  優介が座ろうとした時、陽の向かい側でガタンッ、と大きな音がしてびくりと肩が揺れる。  優介も「ひっ」と悲鳴を上げ、姿勢をビシッと正して固まった。音の発生源すぐ近くにいた飛鳥は声も出せずに硬直している。  目を丸くした陽の視線の先には、睡蓮が長い足を組んで座っていた。  雲雀も僅かに目を見開いて睡蓮を見たが、睡蓮の視線はじっとりと陽を睨む。   「……?」    少しの間、陽が視線を逸らさず、ただ不思議そうに瞬きを繰り返していると、睡蓮がようやく、フッと笑みを浮かべた。   「……君影睡蓮だ。よろしく」    睡蓮は綺麗な笑顔を浮かべて、陽の前に右手を差し出す。   「……君影……? ……よろしく」    聞き覚えのある名前に、少し考えた後、陽も右手を差し出した。   「っ!」 「陽?!」    思わず陽がパッと離れて睡蓮を見つめる。  雲雀がその手を見ると、引っ掻き傷から血が滲んでいた。  陽が睡蓮のガラス細工のようなその手に触れた途端、見た目からは想像もつかない力で鋭い爪が食い込んだのだ。   「はは、Ωのか弱い手には強かったかな?」    睡蓮は手をひらひら、と振りながら、笑っていた。   「友好の握手ですら満足にできないとはな」 「睡蓮!」    雲雀が立ち上がろうとすると、くっ、と引っ張られて阻まれる。  視線を下へ向けると、陽が雲雀の制服の裾を掴んでいた。   「大丈夫」 「陽……」    陽が見上げて、にこ、と微笑む。雲雀は少しも迷ったが、陽が止めるなら、と睡蓮を一度睨み、腰を下ろした。陽の方へ体ごと向けて、傷ついた手にそっと両手を添える。   「……ほんとに大丈夫? 保健室いく?」 「ううん、平気」    雲雀は心配そうに見つめながら、白くて柔らかい陽の手を撫で続けた。   「かすり傷だもん。舐めとけば治るよ」 「……舐めようか?」 「あはは、どういうことー? 雲雀おもしろーい」    ころころ、と陽が笑うので、雲雀もほっとして笑う。周囲の目も、睡蓮がじっと睨んでいることも、気にしていない。雲雀の青灰色の瞳は陽だけを映していた。  睡蓮は面白くなさそうに、ふん、と鼻を鳴らした。   「……話は聞いてるよ。桃ノ木陽」    睡蓮が陽に向けて挑発的な笑みを見せる。陽の視線が雲雀から睡蓮へと移ると、さらに続けた。   「僕は雲雀と中等部からの付き合いでね。君は外部生だって?」 「うん、そうだよ」 「編入試験が甘かったのかな。それとも学園関係者に知り合いがいるのか? 本来なら、君のような子が受かるはずないのに」 「……?」    睡蓮の明らかな侮辱の言葉に、睨んで返したのは雲雀だった。しかし、本来睡蓮が傷つけたいはずの陽は、言葉の棘にも毒にも気付かず、きょとん、とした顔で首を傾げている。  それに苛立ちを感じながらも、睡蓮は笑みを崩さなかった。   「どういう手を使ったか知らないが、良かったな。ここには特に優秀なαしかいないし、Ω慣れしていないお坊ちゃんも多い。お前程度のΩでも、相手には困らないだろう?」 「……おい睡蓮」 「さっき告白してきた奴は何人目の男だ?」 「……!」    怒りを滲ませた雲雀の声に被せるように、睡蓮が続ける。その言葉で、ようやく陽の表情が変わった。おっとりとした瞳が大きく見開かれ、睡蓮を映し出す。  自分の望む反応を引き出そうと、睡蓮は笑みを深めて、さらに口を開く。   「わざわざ数えてないかな? 何人惑わしたか知らないが、あいつも古くからの名家出身。三男だけあって、身の程を弁えていて、謙虚で控えめな性格。雲雀や僕ほどじゃないが、なかなか優秀な個体だ。……ああ、ほら」 「……?」    睡蓮が食堂を見回し、顎で示した先には先程のαの少年がいた。陽も同じ方向に視線だけを向ける。   「いるじゃないか。あそこに」    少年は青褪めた顔で成り行きを見守っていたが、睡蓮の視線に身体を強張らせて、目を逸らすように俯いた。陽が睡蓮に目を付けられた理由が自分であることに、気付いてしまったようだ。   「お前の相手には役不足だが、断るなんて惜しくないか? 何だったら、この僕がもう一度この場に呼んでやっても」 「やめろ」    鋭く響く声に、睡蓮の表情から笑みが消える。  睡蓮がゆっくりと向き直り、声の主を睨んだ。  けれど声の主は、――桃ノ木陽の眼差しは、睡蓮の氷のような藍色を臆することなく見つめ返している。  雲雀は、陽から柔らかな笑顔や表情が消えたところを見るのは初めてだった。  周囲で睡蓮たちやαの少年に好奇の目を向けていた生徒も、陽の言葉に、口を閉ざし、身体を硬直させている。雲雀は陽の穏やかな柔らかい声が、こんなに強く響くとは知らなかった。  睡蓮も真っ直ぐ向けられた眼差しに、僅かに目を見開いたようだった。仔兎と侮っていた者からの反抗に不意を突かれたのだろう。  けれど、すぐに挑戦的な笑みに戻る。これで怯むような睡蓮ではなかった。   「……なんだ? 何かまずかったか? ああ、他にも手を付けてるやつに聞かれたくないとか?」 「あの時交わした言葉は、」    睡蓮の言葉を鋭く切り捨てる。   「……あの時交わした言葉は、おれとあの人、二人だけもの。おれを信頼して、心の内側を明かしてくれたの。  ……それを 〝偶然〟 覗き見てしまったっていうなら仕方ないけど」    決して声を荒げることなく、淡々と響く陽の言葉の中で、やけに強調されて聞こえた『偶然』という単語に、雲雀と優介、そして飛鳥の肩もギクリと震える。   「……君が容易く触れていいものじゃない。勝手に晒すな」    ざわつく食堂内で、彼の周辺だけが静まり返り、よく響いた。  陽の眼差しや声に、月詠のような鋭さや強さはない。けれど、凛と張り詰め、間違いなくこの場の空気を変えた。少しも怯えず、狼狽えず、真っ直ぐに挑む凛々しい横顔に、雲雀は思わず息をするのも忘れていた。   「……あら?」    誰もが遠巻きに見守るだけで近づくこともできなかったというのに、生徒たちの間から平然と近づいてくる生徒がいた。  生徒たちが慌てて道を開ける。その真ん中を微笑みとともに「ありがとう」と一言添えて、容易く一般生徒の心を奪いながら進むのは、学園の女帝、桃ノ木月詠であった。  月詠はテーブルの近くまで来ると、腕を組み、長い黒髪を靡かせ、彼らを鋭く美しい眼差しで射抜く。   「今度はなに?」    睡蓮以外の三人が顔を上げて、またぎくりと身体が強張る。   「また随分と大勢で囲んでいらっしゃるようね」    穏やかな口調ではあったが、その目は『覚悟はできているな?』と、一切の弁解を受け付けないであろうことを物語っていた。  告白現場の覗きといい、こんな公の場での侮辱といい、全面的に自分たちが黒でしかない。雲雀としてはすぐにでも素直に謝りたいが、睡蓮以外は青ざめて固まったままでそれどころではなさそうだ。   「えーっと……」 「なんでもないよ」    どこからどう謝ろうかと雲雀が考えを巡らせていると、隣の陽が立ち上がった。可愛らしいお弁当箱を手にして、月詠のもとに歩き出す。   「行こ、月詠ちゃん」 「……?」    月詠は首を傾げていたが、陽がそういうなら、と彼らから視線を外し、陽とともに歩き出した。   「はる…」    雲雀は慌てて立ち上がったが、同じタイミングで陽がパッと振り向いた。   「どうぞごゆっくり」    にこり、と微笑んで、再び踵を返して去っていく。  周囲を取り囲んでいた生徒たちが、二人の為に道を開けていた。陽が「ありがとう」と声を掛けて微笑むと、少年少女問わず、目の当たりにした生徒たちの頬がほんのり染まっていく。  食堂を出ていく小さな背中に、αの少年が駆け寄っていく姿が見えたのが最後だった。    人だかりの向こう側では、まだ何が起きたのか知らない生徒たちがざわめいていた。  何があったの? 喧嘩? 睡蓮くんが? どこの子と? オメガ? とざわめいて、人だかりも散っていく。人だかりとともに、今日の出来事が学園中に広まるのも時間の問題だろう。  緊張と恐怖からようやく解放されて、優介や飛鳥はぐったりとテーブルに突っ伏している。睡蓮は何も言わないが、気分は害したであろう。けれど雲雀にはどうでもいいことだった。    陽を引き留めようと立ち上がって、伸ばした手は力なく落ちていく。  振り向いた陽の笑顔が、ぐるぐると頭を回る。  花の香りもなく、花も咲かない。透明な壁で弾かれたようだった。  何よりも『どうぞごゆっくり』の微笑みが、『覗き見なんてサイッテー』と聞こえた。    ――……ああー……死にてぇ……。    清く正しく強く生きてきた雲雀にとっては耐え難い罪悪感に肩を落として、俯く。テーブルに手をついて支え、なんとか崩れ落ちることだけは避けた。  足元さえ覚束ない様子の雲雀を、睡蓮がじっと睨んで、繊細な美貌を歪めていた。

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