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第7話 春は心を狂わせる

 午後の授業でも、陽の拒むような笑顔が頭を離れず、雲雀の心は教室になかった。  酷く落ち込んでいるアンニュイな姿でさえ他の生徒にとっては目の保養であることも、授業中当てられて答えられなかったことも、今の雲雀にはどうでもいいことだった。当然、睡蓮が苛立たし気に睨み付けていることにも気づかない。  思考がぐるぐる回って沈んでいく。陽がいるであろう、東校舎側の窓をぼんやりと見つめ続けた。    ***   「……はぁ~あぁ~……」    授業をすべて終えて、優介は何度目かわからないため息をついた。昼休みの食堂での出来事から、彼のやんわり太い眉はずっと、情けなくも八の字になっている。   「陽くんに怒られちゃった……」 「お、怒られたわけじゃないだろ!」    飛鳥も昼休み中は優介と同じように口数も少なくなっていたが、少し調子を取り戻したようだった。  しょんぼりと項垂れる友人を励ますためか、あるいは自身の行いにやましい部分があったことを消し去りたいのか、飛鳥は声を荒げた。   「だいたい、何様なんだよあいつ!」 「何が?」 「えっ」    冷水を浴びせるような声に、飛鳥は思わず振り向いた。  ぼんやりと窓を見つめていた雲雀が、今は飛鳥を真っ直ぐに見つめる。睨まれているわけではなく、責められているわけでもないはずなのに、飛鳥は酷く動揺していた。   「だっ、だって……! あんな、偉そうにっ……!」 「言ってること真っ当だったと思うけどな。覗いたのは明らかにこっちが悪いし」 「それは……! そ、そうだけどさ……」 「うん……そうだよね……」    優介も頷いて、また項垂れる。飛鳥は、でも、だって、と繰り返してはいるが、心のどこかではわかっているのだろう。声は小さく、燃え上がりかけた怒りの炎もしゅうん、と鎮火されている。   「しかもそれをわざわざ、みんないるとこでベラベラ喋るなんて趣味悪いしサイテー」 「僕のことか?」 「他に誰がいんだよ」    悪びれた様子も、落ち込んだ様子もない睡蓮を、雲雀は苛立たしげに強く睨む。  目が合った瞬間、バリッと火花が散った二人に、優介と飛鳥がきゅっと小さくなる。   「前から思ってたけど、お前態度悪すぎ」 「釘を刺しておいてやったんだ。被害が出てからじゃ遅いだろ?」 「陽は無害だし、良いやつだよ」 「なんだ、随分あいつの肩を持つな」    睡蓮は立ち上がって、雲雀の机の前に立つと、真正面から雲雀を見下ろした。   「お前だって覗いてたくせに」    雲雀の鋭く強い眼差しが、一瞬揺れる。それを見て睡蓮は、勝ち誇るように笑った。   「αとΩが揃えば何か起きるかもしれない、と考えたんだろう? 僕と何が違うんだ?」 「……そうだよ。俺もサイテー」    雲雀は立ち上がって、バッグを手にすると扉へと歩き出した。  二人のやりとりをできるだけ気配を消して見守っていた飛鳥は、はっとして雲雀を呼び止める。   「ひ、雲雀どこ行くの?! 放課後遊びに」 「帰る」 「あ、そ、そっか……」    またあした、と小さく呟く飛鳥の声が、届く前に雲雀は廊下へと出て行った。   「……チッ」    優介と飛鳥が少しの間扉に目を向けていると、苛立ちを隠そうとしない舌打ちが響いて、肩をビクッと大きく震わせる。そぉっと、様子を窺うように振り向くと、睡蓮が想像通りの表情で不穏な怒気を滲ませていた。怯えて固まる二人の横を、睡蓮が通り過ぎていく。   「あっ! 睡蓮はどう」    する? と飛鳥が最後まで言う前に、バンッと扉が締まる。睡蓮もまた教室から出て見えなくなってしまった。  立て続けに友人に誘いを断られ、飛鳥ががっくり、と肩を落とす。優介は苦笑しながら背を撫でて、慰めた。   「……それにしても、陽くんってすごいなぁ」 「はぁ!? なにが?!」    悔しさや憤りを込めて飛鳥が睨むが、優介は困ったような笑顔でそれを受け止める。   「αの子にΩの子が言い返すのってなかなかできないじゃん? ……怖がられてるから」 「そ、そんなことねぇよ! 優介は優しいし!」    ぽつり、と溢したのはαにしては優し過ぎる優介の日頃の寂しさが滲んでいて、飛鳥は慌てて否定した。けれど優介は首を振って少し微笑む。   「でも、陽くんは立ち向かっていった」    優介の脳裏に昼間の陽の、凛々しい横顔と眼差しが思い返される。その姿に、優介は寂しそうな笑みから、ふにゃり、と腑抜けたように表情を緩ませた。   「可愛いだけじゃなくて、芯が強くて、かっこよかったなぁ!」    一生推せる、と決意を新たにする優介は、珍しく力強い。飛鳥は普段から、優介の『推し』という言葉の概念が理解できていなかったので、首を傾げるしかなかった。   「はー……? あんな奴のどこが……」 「それに、睡蓮くんに言い返す子初めて見た」 「……それは……」    さすがの飛鳥も、ぎゅっと口を噤む。   「今まで、……月詠ちゃんは特別だとして……雲雀くらいだったじゃん。睡蓮くんと戦えるのなんて」 「……それは、まあ……びっくりしたけど……」    ***    ――面白くない。    睡蓮は雲雀の背中を鋭い眼差しで見つめている。  常に凛々しく、正しく、隙のないはずの背中が、僅かに脆さを見せ、肩を落としている。鋭く強い眼差しが容易く揺れたことも、今も時折切なげに東校舎を見つめるのも、睡蓮には気に入らなかった。その原因が、こちらの挑発に気付くことすらできない頭脳の、仔兎のような男の存在であることも。  Ωが雲雀を乱しているなどと、考えるのも腹立たしい。 「……ふん」  睡蓮は踵を返して、視線を背けた。これ以上、見ていたくなかった。    昔から雲雀が他人に甘い男だということはわかっていた。睡蓮には理解できないことだが、その優しさはΩに対しても分け隔てなく与えられる。  けれど、誰も特別にはなれなかった。    今回も同じことだ。今はただ、目の前で転んでしまった、か弱く脆い仔兎を気にかけているだけで――   『君が触れていいものじゃない』   「――……っ」    臆することなく挑んできた桃色の眼差しを思い出して、睡蓮は沸き上がるものをぶつけるように壁を殴った。鈍い音が響いて、数名の生徒が振り向く。だが、音の発生源に不穏なオーラを纏う睡蓮を見つけて、慌てて視線を逸らし、足早に去っていった。  睡蓮は壁を殴りつけるだけでは満たされず、爪が食い込む程拳を握り締める。  ありったけの憎悪を込めて。

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