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10話-1 弟

 菖蒲堂颯には雲雀の弟になる8歳より前の記憶がほとんどない。彼に残っている一番古い記憶は四角い部屋の、薄汚れた天井。数日前に少しかじった、干からびたパン。そして、綺麗な女性の泣き顔。  なんで、どうして、と泣き叫ぶ。 「特別な子が生まれれば、あの人だって、きっと」  ――ごめんなさい。とくべつな子になれなくて。    それからがらりと景色が変わる。  優しい父と美しい母、両方とも受け継いだ兄。  暖かいベッド。ふわふわの手作りパン。広い部屋。  自分は空っぽで出来損ないかもしれないけど、この恩には報いたい。    ――きっと、それが今だ。    ***   『菖蒲堂雲雀に付き纏っているΩがいる』 『怪我をしたところを助けたら、執拗に迫られるようになったみたいだ』 『理事長お気に入りの魔性のΩで、いろんな奴を誑かしては弄ぶんだ』    颯はこれらの噂を、完全に信じたわけではなかった。    ――……兄がそんな男に騙されるとは思えない。    颯の兄、雲雀は心優しい人だ。けれど、決して優柔不断な男ではない。誠心誠意尽くして、受け取れない愛は断るだろう。今までもそうしてきたはずだ。    しかし、もし、万が一、兄の優しさを利用する者がいるのだとしたら。  もし、『桃ノ木陽』が、噂通りの魔性のΩなら。    ――許せない。  ――必ず、正体を突き止めてやる。    ***   『桃ノ木陽』は、桃ノ木月詠の双子の兄らしい。  月詠のことは颯も知っていた。兄の友人として、何度か見かけ、紹介されたこともある。とても美しく凛々しく、……ちょっと、眼力が強めの……清廉な女性であった。  そんな人の双子の兄がどうして『魔性』に? と颯は不思議だった。清く正しく美しい月詠が、そんな存在を許すとはとても思えない。    理由はわからないままだが、颯はすでに桃ノ木家の屋敷の前で、物陰に隠れていた。  颯は昔からかくれんぼが得意で、幼い時はあまりにも見つからなくて警察が出動したこともあるほどだ。体が成長し、雲雀の身長を抜かしてしまった今も、「急に現れるな」と驚かれる。  幼い頃から気配を殺して生きてきた時の癖が、まだ抜けていないのかもしれないと父が話していたのを聞いた。    それでも、さすがに月詠の目は誤魔化せないだろう。念のため、彼女が早朝に部活へ向かってから、屋敷の前に隠れることにした。  あとは桃ノ木陽が出てくるのを待つだけだった。    待っている間、『桃ノ木陽』とはいったいどんな男なんだろう、と颯は考える。  疑問は残るが、桃ノ木月詠の瓜二つの容貌とΩの性を持って闇に堕ちたということならば、それはそれは恐ろしい魔性の者であることだけは間違いないだろう。百年に一度と謳われる美貌と、Ωの『魅了(フェロモン)』を兼ね備えているとなれば。    βである自分には『魅了(フェロモン)』のことはよくわからない。  あらゆるΩの『魅了(フェロモン)』がすべてのαに影響を与えるわけではなく、基本的には相性があるのだということはαである兄から教えてもらった。  実際に、兄の雲雀はαだが、今までΩの『魅了(フェロモン)』を感じ取ることはできても、どうしようもなく惹かれる、ということはなかったらしい。むしろ、眩暈や吐き気などの拒絶反応を起こすこともあったくらいだとか。  ……事前調査の一環で、桃ノ木陽はどうなのか、と尋ねてみると、珍しく答えに困った様子の兄は、しばらく考え込んで、こう呟いた。   『……陽に出せるのは……お花くらいかな……』 『花?』 『花』 『…………花?』    確認するように何度も呟いていると、兄は笑った。   『……お前も会えばわかるよ』    そう言って、目を細めて笑う。  俺はβなのに? と問おうとしてやめた。そういうことを言うと両親や兄は悲しい顔をする。  いつも正しい答えをくれる兄がそう言うならば、きっとそうなんだ。    ――いったいどんな男なんだ……?    颯が考えを巡らせているちょうどその時、門の扉が開いた。  緊張の一瞬を迎えて、颯の心臓が胸を強く叩く。   「いってきまぁーす」   やわらかな声が響いて、桃ノ木陽らしき少年が姿を現した。  さらさらと細っこい黒髪に、おっとりとした淡い桃色の眼差し。  セーラー襟の制服は半そでと半ズボンで、白い手足がすらりと伸びて、華奢な体つきがよくわかる。   (……ん? 仔兎?)    そんなはずはない。あの門からは恐ろしい魔性が現れるはずだ、と颯は目を擦るが、何度擦って瞬きを繰り返しても、現れたのは愛らしい少年だけだった。  颯が呆然としていると、突然少年が振り向いた。颯のいる場所を、大きな瞳でじっと見つめている。  颯は咄嗟に隠れたが、心臓の音がドッドッドッと響いて、見つかってしまうのではないかと思った。  見られてはいないはずだが、桃ノ木陽はじぃっと見つめ続けている。   「……あっ! たいへん! おくれちゃーう!」    時間にして数分、桃ノ木陽は何事もなかったように、軽やかに、ぴょんぴょーんと走り去っていった。  走り去った跡に花がぽぽん、と咲いていく気がして、颯はもう一度目を擦る。瞬きを繰り返しても、そこはただの道だ。花は見当たらない。  見当たらないはずなのに、彼が走り去った道に、風と共に花と日向の香りが通り抜けていく。   『理事長お気に入りの魔性のΩ』 『男を誑かして弄ぶ』    ――……魔性……? ……あれが……?   『魔性』などという言葉とは無縁な姿に、颯は呆然としたまま彼を見送ってしまう。慌てて後を追ったが、もうすでに彼の姿はどこにも見えなかった。    ***   「……」 「……雲雀? どうしたの?」    中央庭園内の野原で、雲雀が背後を振り向いてじっと睨んでいる。  特に事件の起きない平和な昼休みだった。陽は野原いっぱいのシロツメクサで、いそいそと花冠を編んでいた。雲雀の異変に気付いて首を傾げるが、雲雀は背後を睨んだままだ。  陽の問いかけから数秒後、雲雀は陽に向き直るとにっこりと微笑んだ。   「なんでもないよ」 「そっかー!」    陽もにっこりと微笑みを返す。雲雀の言葉を微塵も疑わず、再びもそもそと花冠の続きを作り始める。  雲雀は、今度は陽に気付かれないように、少しだけ周囲を見回した。   (……最近誰かに見られてる気がすんだけど……気のせいか?)    一通り確認して雲雀は警戒を解くと、ご機嫌そうな陽をじっと見つめて、憩いの時間を満喫することにした。    ***    ――さすがです、兄さん……。    雲雀と陽の背後……先程雲雀がじっと睨みつけていた庭園の柵の向こう側に、颯は身を隠していた。慎重に二人の様子を窺い、暴れる心臓にぎゅっと手を添える。  危なく見つかってしまうところだった。    颯が桃ノ木陽の噂を聞いてから数日が経っていた。毎日のように桃ノ木陽を追い、監視し、その本性を見極めようと注意深く見張っている。    実を言うと颯は初日だけでなく、今日までずっと桃ノ木陽を途中で見失っていた。    ――図書館内だけではなく、外でも姿を消せるとは……!   『図書館の妖精』――桃ノ木陽はそう呼ばれている。図書館の中で追いかけると本の森の奥へ姿を消すところからついた呼び名だそうだ。  ……いや、もしかしたら、本当に妖精なんじゃないかと、颯は真剣に考えていた。  いつもなら、世間慣れしていない颯が突拍子もないことを考えていても、相談を受けた雲雀が「そんなわけないだろ」と一笑して終わるはずだった。しかし今は、その兄が絡んだ案件だったので、颯は軌道修正することないまま突き進んでいる。    とはいえ、姿を見失ったくらいで諦めてしまうほど、颯の『兄さんを守る』という決意は軽くない。  桃ノ木陽を見失った彼は、真っ先に兄の身を案じた。  桃ノ木陽を監視できなくても、もし噂が真実ならば、必ず兄の前に現れるはずである、と。  彼の予想は見事的中した。  同じことがこの数日の間に何回もあったから、疑いようのない事実だ。颯が見失ったはずの桃ノ木陽は、必ずと言っていいほど、雲雀の前に現れた。    ――……いや、違う……。    そうしているうちに、颯はついに気付いてしまった。  桃ノ木陽が兄の前に現れるのではない。  桃ノ木陽がどこにいようとも、兄が必ず見つけ出すということに。    ――……兄さんが、桃ノ木陽に付きまとっ……    颯は慌てて考えるのをやめた。    そういうわけで、『優しい兄を誑かすΩの正体を暴こう』という颯の固く強い決意は今、兄である雲雀の行動によってぐらんぐらんと揺らいでいる。    ***   「雲雀、本当にいいの? おれ一人でも大丈夫だよ?」 「うん、俺が行きたいだけ」 「でも……」 「邪魔しないから……だめ?」 「……ふふ、いいよー。こちらでーす」 「はーい」  桃ノ木陽が図書館に向かうと、雲雀はその後ろをついていった。    ――に、兄さん……?    ***   「雲雀大丈夫? 重くない?」 「うん平気。他になんか手伝えることある?」 「えー、でも……」 「俺も綺麗な庭園作るの、手伝いたいんだ。だめ?」 「ううん! とっても助かってるよ。ありがとー」  放課後とはいえ、暑さを増す日差しの中、泥だらけの二人は笑い合う。    ――兄さん……。    ***    ……そして今、彼らは   「できた!」    庭園の野原で、桃ノ木陽が誇らしげに、両腕を空へ掲げる。シロツメクサの花冠が完成したらしい。  白くて丸いシロツメクサをメインに、色も種類も様々な花が一緒に編み込まれて、よく映える。   「陽って意外と器用だな」 「……意外とは……?」 「はは、ごめんごめん。可愛いよ。陽に似合いそう」 「おれのじゃないよ」 「? じゃあ誰の? 月詠ちゃん? ……まあ似合わないはずは」    ないな、と言いかけた雲雀に、陽は花冠を差し出した。   「雲雀に作ったの」    丁寧に両手を添えて、にっこりと微笑む。陽の笑顔に、雲雀は目を丸くして、ぱちぱち、と瞬きを繰り返した。   「……えー? 俺?」 「うん!」 「俺は陽みたいに可愛くないし、花なんて……」    雲雀が困ったように笑っていると、陽が身を乗り出した。雲雀に近づき、膝で立ち、亜麻色の髪にそっと、花冠を載せる。  座っている雲雀より、少し高い位置にいる陽を、雲雀が見上げる。日の光が、陽を後ろから照らしていた。   「雲雀は綺麗だから、花だって似合う」    光の中では、陽が桃色の瞳を柔らかく細めていた。   「とっても可愛いよ!」 「……さんきゅ」    楽しそうに笑う陽に対して、雲雀は困ったような顔をして眉を寄せた。  目元が薄っすら紅く染まり、普段は鋭く強い眼差しは、眩しさと擽ったで細められている。こぼれ落ちたような僅かな口元の緩みは、隠しようのない愛しさが滲んでいた。    ――……兄さん?    これ以上は見てはいけない気がして、颯は慌ててその場を走り去った。    ***    優しい父と美しい母。  その両方を持っている優しくて美しい兄は、みんなに愛されていた。  きっと、これが『特別な子』というものなのだろうと、酷く納得したのを覚えている。  いつも他人に囲まれて、その中心で微笑み、出会う人のすべてが、彼を愛し、求める。  特にΩは、寵愛と加護を求めて縋る。    ……そのせいか、兄は時折、独りを好んだ。  すべてを閉じて、誰にも心は許さない。触れるな、とでも言うように、冷たく閉ざされた場所に閉じ籠もる。  いつか出会う、運命だけを待っている。    ……そんな人が   『……お前も会えばわかるよ』    ――兄さん。  それは、つまり、桃ノ木陽は  貴方にとって『特別な子』ということですか?    兄の特別なら、俺も大事にしたいのに。  どうして彼が特別なのか、わからない。  小さく、か弱く、白く、柔らかくて、脆そうで。    わからないから疑ってしまう。 『本当に桃ノ木陽を信じていいのか』と。    ……もしかしたら、わからないのは、俺が空っぽで出来損ないだからかもしれない。  一番古い記憶の奥底、薄汚れた天井の、四角い狭い部屋で、泣いていたあの人の気持ちが、何一つわからなかったみたいに。    ――ごめんなさい。    空っぽのはずの胸が、何故か痛んだ。

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