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10話-2 弟

「ごめんな、手伝いに行けなくて」 「気にしないで」    心底寂しそうな兄に対して、桃ノ木陽は笑顔で答えている。   「この学校の体育祭、文化祭と同じくらい盛り上がるんだってね。月詠ちゃんから聞いた」 「はしゃぎ過ぎだよな。理事長の趣味かなんか知らないけどさ。おかげで手伝いに駆り出されるし」    呆れたような兄のため息に、桃ノ木陽はふふ、と微笑んだ。   「おれもお祭り好きだから楽しみだなー」 「……陽がそういうなら、頑張ってくる」 「うん、頑張ってねー」    兄は名残惜しそうに何度も振り返り、桃ノ木陽は兄が見えなくなるまでその姿を見送っていた。他の生徒達もいるが、二人には関係ないのだろう。  桃ノ木陽は兄を見送ると、くるりと振り向いて、中央庭園へと歩き出した。    そういえば、と颯は考える。  自分は今まで、兄といる時の桃ノ木陽しか見ていない。  兄の前では仔兎のようだが、ひとりの時は何をしているのだろう。  いつも見失うのは、他の誰かと会っている可能性もあるのでは。  兄にとって桃ノ木陽が特別だとしても、桃ノ木陽にとっては……?    ――……もしかしたら、答えが。    これで最後にしよう、と颯は桃ノ木陽の後を追った。    ――ここで恩に報いなければ、自分はただの役立たずだ。    ***    中央庭園。  桃ノ木陽が現れてから様変わりしたという奇跡の庭園に、颯が入るのは初めてだった。  先に一人で桃ノ木陽が入っていくのを確認した。洋風の門は開いたままだ。    中に入ると、花のトンネルに覆われた階段の入口が目に入る。トンネルをくぐる桃ノ木陽の細い背中を、今度こそ見失わないように、静かに追った。  花のトンネルは夏に向けて葉が生い茂り、桃ノ木陽の後ろ姿を追うのがやっとだった。  焦る颯の前で、さわさわと花と葉が揺れる。何故か浮かれたように楽しげに揺れているように見えた。色とりどりの花たちを前にして、颯は少し立ち止まった。    ――焦っても仕方がない。この先は一本道のはずだ。    颯は一度大きく息を吸った。同時に、風が強く吹き抜けた。  夏の、青々とした薫りがする。葉が揺れて、日差しがキラキラと輝いている。    ゆっくり息をついて歩き出すと、周囲の色鮮やかな景色が目の前に広がっていた。  あれは何という名の植物なのだろう。この葉の形は、花の色は、香りは。  知らないことが多くて、次から次へと疑問が沸いてくる。気付けば、あっという間に、トンネルを抜けていた。    開かれた丘の上。  それ以上踏み込むことができず、颯はその光景をじっと見つめていた。    颯が我に返ったのは、西洋風の建物の中へ入る桃ノ木陽の後ろ姿が視界を掠めた時だった。  慌てて追って、茂みの影にしゃがみこみ、身を潜める。   「……! えっ……?!」    屋根の下を覗いた颯は、思わず立ち上がって、中へ向かう。低い階段を数段登って、屋根の下に入るが、そこに桃ノ木陽はいなかった。  建物と同じ白いベンチが向かい合わせで並び、柱が屋根を支えるだけで壁などはない。見失うはずはない。柱の影やベンチの下も確認したが、桃ノ木陽の姿はどこにもなかった。  この花園から出るには、下へ向かう階段を降りるしかないが、階段の出入り口には誰も近づいていない。    ――えっ……ほんとに? ほんとに妖精?!   「ねえ」    混乱している颯は、ビクッと震えて振り向いた。  確かに穏やかな声で呼びかけられた気がしたが、いくら見回してもそれらしき人の影は見当たらない。  声を追って、颯は建物の屋根の外に出た。   「こっちだよぉ」    あの声が〝降ってきた〟    ――……まさか、空から?!   『桃ノ木陽妖精説』が頭から離れない颯は、咄嗟に空を見上げた。  空は青く澄み渡って、人影はなかった。  その代わり、もっと近くにいた。   「……!!?」    颯は目を見開いて、彼を見つめた。    屋根の上に。  声の主が、桃ノ木陽が。    桃ノ木陽は、屋根の縁にちょこんと座って、半ズボンからスラリと伸びた白い足をぷらぷらと無防備に揺らしている。小首を傾げた愛らしい姿は、妖精と呼ばれるに相応しいものだった。    ――でもっ……ど、どうやって?!    桃ノ木陽は颯が気付いたことを確認すると、「とぉ!」と飛ぶ。屋根の上から近くの塀の装飾品、柱の凹凸等を足場にトントントン、と軽やかに降りてくると、最後に颯の目の前で、すたん、と見事に着地した。    おっとりとした声と華奢な見た目からは想像し難い身軽な動きに、颯はただただ呆然としていた。  今まで敵の背後を取ることはあっても、取られたことなどなかった。  それが、こんな仔兎ちゃんに。    ――何という不覚。    尾行がバレてしまった以上、桃ノ木陽の正体を暴くことはもはや不可能となった。    ――俺はやはり、役立たず……。    颯は己の無力さに打ちひしがれた。  そうとは知らない陽はじっと颯を見つめると、にっこりと微笑む。   「最近ずっと、おれのことずっと見てたねぇ。なぁに?」    陽が可憐に小首を傾げるが、颯は肩を落として項垂れている。  陽は颯の様子をまじまじと眺め、自分が意図していたよりも驚かしてしまったのかもしれない、と考えた。   「……お花好きなの?」 「……え?」 「お花を見てておれを見失ったでしょう?」 「……」    颯は庭園に入ってからの、トンネルを抜けるまでの光景を思い出す。   「……はい」    颯は小さく頷いた。  庭園に入ってから目にした色とりどりの花や風の薫り、全てが美しかった。  特に階段のトンネルを抜けてすぐに目の前に広がった光景。白い建物が静かに佇む花園。  そこは、自分が足を踏み入れることを躊躇うほどだった。  魔性のΩの正体を暴くという決意も、その時は忘れてしまっていた。   「じゃあ、お花が好きってことだよね?」 「……す、好きか、どうか…よく、わかりません」    颯の言葉に陽が首を傾げると、颯はまた俯いてしまった。  颯は自分のことがわからない。   『何が好きなの? 何が嫌いなの? 将来の夢は? 趣味は?』 『……なにもないの?』    空っぽだから、何も答えられなくて、大人を困らせたことは数知れない。   「……そっか」    ぽつり、と落とした呟きに、颯はびくりと肩を震わせた。自分のことなのに、自分でもわからないのは、おかしいことらしい。桃ノ木陽も、きっとそう思ったに違いない。  自分が空っぽで出来損ないだから、わからないのだ。優しい父、美しい母、両方持っている兄がいるのに、自分だけは。   「じゃあ確かめてみよう」 「……え?」    ぐるぐると思考の底へ落ちていく颯の目の前で、いつの間にか距離を詰めていた桃ノ木陽が微笑んだ。   「一名様ごあんなぁい! こちらでーす!」 「えっあのっ」    手を引かれて、花のトンネルを降りていく。  簡単に振りほどけそうな細い手を、颯は振りほどけなかった。  思っていた通りの小さな手は、思っていたよりも白くて柔らかくて、あたたかった。    ***    白くて柔らかくてあたたかい手の持ち主は、園芸部部室前まで颯を連れて行った。   「というわけで、体験入部の生徒です!」 「え?!」    部室前に集まっていた生徒たちが、目を丸くしている。颯も目を丸くして陽を見つめた。  部員たちは二人を交互に見つめて、「なぜこの子までびっくりしているのだろう?」と首を傾げる。しかしながら、ニコニコしている陽はいつも通り何を考えているかわからないし、急に現れた少年は自分達よりも混乱しているように見えた。部員たちはこの難題を自力で解くことを、素直に諦めた。   「……何からの『というわけで』?」 「お花に興味がありそうだったので、体験していただこうと思いまして」 「この子はどこの子ですか? どこから連れてきたの?」 「どこの子でしょうねぇ」 「あっわかんないんだ……連れてきたのに……?」 「園芸部はどこのどなたでも閉ざす門を持ちませんので……出自は問いません……大切なのは花を愛する心……」 「そうですけど、そうじゃないです!!」    部員たちには、何一つわからなかった。  陽は両手を胸に当て、菩薩のように慈悲深い微笑みを浮かべている。詳しくは語らず、ありのままを受け入れる姿があまりにも堂々としているから、部員たちは「あれ? 間違っているのは私たちなのかな?」「騒いでる私達の方が恥ずかしくなってきた」とざわめいている。   「まずは自己紹介だね。はい、どうぞ」 「……えっ……えっ?!」 「さあ、どうぞ」    颯が陽を二度見して戸惑っている様子に、部員たちは「おや? 怖い顔しているけど悪い子ではなさそうだぞ?」とひとまず警戒を解いた。   「い、一年の菖蒲堂颯と申します……はっ…はじめまして……すいません……」 「あ、はじめまして」 「こちらこそ我々の陽くんがすいません……」 「なんだか申し訳ない……園芸部へようこそ……」 「よくできましたぁ! 飴をあげましょう!」 「えっあっ、ありがとうございます」    陽が飴玉を差し出すと、颯はわけのわからないまま、丁寧に両手で受け取った。  部員たちは「なんだぁ、良い子だぁ」と胸を撫で下ろして、優しく微笑んだ。   「じゃあみんなジャージに着替えて、はじめましょー!」 「はーい!」 「はじめる…えっ、なにを……え? えっ??」    ***    戸惑いながらも、颯はよく働いた。  雑草を抜き、土を運び、土を盛り、整える。  花壇や庭園の清掃、花の植え替えまで。    真面目で従順な性格が功を奏し、泥にまみれることもいとわず、懸命に働く姿に、部員一同は感動した。   (陽くんの思いつきで連れて来られただろうに) (なんて健気なの……) (良い子だ……)    気付けば皆優しく暖かい眼差しで見守っていた。    ***   「颯くん! お疲れさま!」 「休憩にしましょう!」 「あっは、はい!」    声を掛けられて初めて、颯は顔を上げた。  すっかり熱中してしまって、時間を経つのも忘れていた。  植えられたばかりの花を、そっと撫でる。  自分の手で、植えた花。  これから育てていく命。    ――……かわいい……。   「可愛いねぇ」 「っ……?!」    颯の肩が大きく震える。  花壇に残っているのは自分一人だと思っていたのに、すぐ隣で陽がしゃがみ込んでいた。   「楽しかった?」 「――……」    しばらく考えて、颯は小さく頷いた。  ふふふ、と、泥のついた顔で、桃ノ木陽が笑っている。    ――元気な仔兎だ……。    気付けば、颯も少し微笑んでいた。    ***   「はいどうぞ」    颯が休憩用の折りたたみ式の椅子に腰掛けると、目の前にコップが差し出された。   「梅の炭酸ジュース、飲める?」 「……初めてですが、……いただきます」    受け取ってまじまじと見つめる。  爽やかな梅の香りがふわりと漂う。  蜂蜜のような黄金色が氷と一緒にキラキラ光る。   「いただきまぁす」 「……いただきます」    陽が飲むのと合わせて、自分も口をつける。   「すっぱっ!」 「っ!」    すっきりとした酸味と香りが広がった。  陽が隣できゅうっと口を窄めて、ケラケラ笑うと、また口をつける。その度に「すっぱいっ」と笑っている。   「美味しいねぇ」 「……はい」 「この梅ねぇ園芸部で収穫したんだよー」 「!」    颯がわかりやすく目を丸くして、手にあるジュースと陽を交互に見つめる。   「夏には夏野菜も採れるよ。楽しみだねぇ」 「はい」    入部するとは颯は一言も言っていなかったが、陽は当然のように未来の話をして、颯も何の疑問もなく受け入れていた。   「ジュース美味しいねぇ。元気が出ますなぁ」 「はい」 「……元気になった?」 「……っ!」    はっとして颯が陽を見ると、陽は大きな桃色の瞳で、じっと颯を見つめていた。頭の中を覗き込むような無遠慮な眼差しが、柔らかく細められる。    ――この人は何を知っているのだろう。何もかも知っているかもしれないし、何も知らないのかもしれない。……でも……。    何もかも信じて預けていいような気がした。   「……また来てもいいですか?」 「もちろん!」    桃ノ木陽が笑う。花が咲くように。    ――花みたい……。兄さんが言ってた『花』とは、もしかしてこのこと……?   「いつでもどうぞ! 園芸部の庭園は、閉ざす門を持ちませんので!」 (……教会?)    ***   「新入部員が入ったのー! 1年生の子! 紹介するねー」 「へー、この時期に珍しいな」    陽は雲雀の手を引いて「早く早く」と急かす。グイグイ引っ張る手は力強いが、二人の時間が取れたのは数日ぶりだ。久しく触れていなかった白くてか弱い手は相変わらず柔らかくて、雲雀の表情は穏やかに緩む。   「庭園でお花見てたから声掛けたの。働き者でね、とっても可愛いんだー」 「よかったなぁ」    にこにこと笑う陽に、雲雀も笑顔で返す。  今まで陽が『可愛い』と表現したものを思い返しながら、「陽の可愛い基準、さっぱり分かんねぇんだよなぁ」などと考えたが口には出さなかった。  数日話せなかった分を取り戻すかのように、一生懸命伝えようとしている。それが何よりも可愛らしいのだから、それでいいのだ。    雲雀が陽の報告に「うんうん」と頷きながら歩いていると、ついに陽が立ち止まる。  何故か「ふふん」と誇らしげに、花壇の近くをビシッと指差した。   「あの子です!」 「へぇ、1年にしてはでかい……」    うちの颯と同じくらいかなぁと考えた後、雲雀は瞬きを繰り返した。  そこにいたのは、間違いなく弟の菖蒲堂颯だった。いつも通り感情が表に出にくい仏頂面だが、兄にはわかる。  見たことのないくらいキラキラと瞳を輝かせて、イキイキとしている。泥まみれの弟は、何故か輝いていた。   「な、なんで颯が?」 「あれ? 知り合い?」 「いや、知り合いっていうか弟」 「……え!!?」    二人は思わず、顔を見合わせた。    ***   「まあ改めまして」    雲雀は親指で隣の颯を示した。   「こいつ、俺の弟」 「……えぇ!?」 「二度目なのにすごい驚くじゃん。なんで?」 「え、だって…あっ……えっと…」 「……?」    陽が珍しく目を逸らし、モニョモニョと口籠るので、雲雀は首を傾げる。   「えっと……お、弟いたっけ?」 「……まあ、言ってなかったけど、いるよ。それが、こいつです」 「そ、そうなんだぁ……」 「……?」    雲雀と颯を見比べて、陽は不思議そうな顔をしている。  弟とはいえ、もともと血の繋がりはなく、似てはいないだろう。それが不思議なのかもしれない、と雲雀は結論付けた。  雲雀としては、陽が詳しく聞きたがれば、話しても構わないと思っていた。もちろん、颯の了解を取った上で。  けれど、陽はそれ以上聞かなかった。颯を見上げて、ニコニコと微笑んでいる。   「颯くんが雲雀の弟だなんて、偶然だねぇ」 「ああ、そうだな」 「…………はい」    雲雀が頷く隣で、颯は少し間を置いてから小さく頷く。  雲雀が知る由もないが、誤解とはいえ桃ノ木陽を疑い、つけ回していたなどとは口が裂けても言えない。永遠に自分の胸の中に封印しよう、と颯は心に決める。   「……お前、花好きだったんだ?」    不思議そうな雲雀の問いに、どう答えたものかと少し考えて、颯はゆっくり口を開いた。   「……そうみたいです」 「何だよ、そうみたいって」    雲雀が軽く笑う。  自分でもよくわからない、と颯は重々しく俯いた。   「……そっか」    颯が顔を上げると、雲雀が目を細めて微笑んでいた。   「よかったな」 「……はい」    兄の声はいつものように優しく、颯は少しほっとした。  呆れられたのではないかという不安は杞憂でしかなかった。    ――そんなはずないのに。    自分のことはまだよくわからない。他人のことならなおさら。でも、そんな時兄はいつも「今は考えなくて良い」と言ってくれた。       『俺も、何かを待ってる気がする時があるんだ』 『……兄さんでも?』 『……それが何かは、わかんないけどな』    そう言って、困ったような、寂しそうな表情で、笑っていた。  すでに何もかも持っているように見える兄が、何を待っているのか、颯にはさっぱりわからなかった。        ……けれど、今なら。もしかしたら。  少しだけなら。   「よろしくねぇ、颯くん」 「颯でいいよ。な?」 「……はい」   『……今はわからなくても、ゆっくり満たしていけばいい』 『いつか、お前にもわかる』    ――……兄さんの言っていたことが、今なら少しだけならわかる。   「……よろしくお願いします、陽さん」 「よろしくね、颯!」    ――答えはこの人が持っているのかもしれない。    ***    ――それにしても、あの颯が自分から交友関係広げるとは……。さすが陽……。    颯と陽の仲睦まじい姿に、雲雀は感心した。    陽は颯が『可愛い後輩』に見えているらしい。兄の雲雀にとって颯は素直で可愛い弟だが、他人からはそう見えないことを雲雀は知っている。  そのため、家族とばかり過ごしていることも気がかりだった。  颯を恐れず、ありのまま受け入れてくれる他人の存在は貴重だ。    それに、陽が颯を引き連れて、先輩風を吹かしている姿は普段見られなくて新鮮だ。張り切っている姿は何だか可愛い。    ――陽がいるなら安心して任せられるな。    可愛い友と可愛い弟が微笑み合う姿を眺め、雲雀の心も穏やかなもので満ちていく。  満ちていく、が。    もやり、と何かが胸を過ぎる。   (……ん?)    雲雀は胸に手を当て、首を傾げた。

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