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12話 理事長のお気に入り

「それでね! あのね!」    陽が少しでも多くのことを伝えようと一生懸命喋っている。うんうん、と頷きながら、雲雀は「慌てなくていいよ」と微笑んだ。   「時間ならあるから。しばらくは呼び出さることもないし」 「あ、そっか!」    陽は安心してにっこりと笑った。それから、普段通り穏やかに、のんびりもたもたと喋り始めた。    体育祭を終え、解放された雲雀は陽と共に昼休みを過ごしていた。  昼休みを会議室や生徒会室以外で過ごすのは久しぶりだ。陽と二人で過ごせる癒やしのひとときも。    食堂二階のテラス席は、人が少ない。今日に至っては陽と雲雀しかいなかった。本格的な夏に向けて熱くなったせいかもしれないが、おかげで陽との時間をゆったりと過ごせる。  意外と風が通り、日陰が涼しいということを、しばらくの間誰にも知られないといいな、と雲雀は願った。    ――ていうかもうずっと誰も来なくていい……。   「おや」 「……」    他者の排除を強めに願った瞬間、二人の時間に他者の声が割り込んだ。  邪な願いなど持つべきではないな、と反省しつつ、邪魔者の出現は正直腹立たしい。雲雀はあからさまにため息をついた。   「……どーも」 「すいませんねぇ、雲雀くん。お邪魔したみたいで」    雲雀の露骨な態度に怒るでもなく、かといって言葉ほど悪びれる様子もなく、その人は微笑んだ。    陶器のような白い肌に、毛先に緩やかなウェーブがかかった長い髪は日差しを受けて輝く白銀。長い前髪で覆われた左目はよく見えないが、右目は細められ、薄い唇は弧を描く。  青みを帯びた紫色の宝石のような瞳も、丁寧に作りこまれた人形のような顔立ちも、優雅な笑い方も口調も、何もかも作り物のようで好きになれない。あの八千代よりもスラリと高い身長で、見下ろされるのも気分が良くない。  陽との二人っきりの時間に平然と入り込んできたことで、雲雀の中での評価が一段と下がる。下手したら舌打ちでもしていたかもしれない。  この人が、――君影ルイが、理事長でなければ。  誰にも言ったことはないが、雲雀は初めて会った時から、この男を信用していなかった。    しかし、一応理事長だし、父とは昔からの知り合いらしいので大目に見よう、と雲雀は心を落ち着けた。    雲雀の態度を気にした様子もなく、ルイは陽に微笑みかける。   「陽くん。お元気でしたか?」 「こんにちはルイさ…」 「……」 「……! 理事長!」 「はい、よくできました」    言い直した陽に雲雀が首を傾げる中、不思議な空気で、二人が微笑み合う。   「相変わらず君は可愛らしい。お元気そうで何よりです」 「ありがとうございます! 理事長こそ今日も綺麗ですね! 妖怪ですか?」 「ふふふ、褒め言葉のつもりかな? ありがとうございます」 「……?」    陽は首を傾げた。   「……やっぱり妖怪なんですか?」 「違いますよ。毎回否定しないとわからないかな?」 「今日こそ妖怪になってるかもしれないと思いました!」 「おやまあ、そうですか。大丈夫ですよ」 「そうですかぁ……、……」    陽は少し考えた後、大きな瞳でじぃっとルイを見上げた。   「……もう少しかぁ」 「期待しているところ申し訳ないんですけど、もう少しとかでもないんですよねぇ」    残念そうに肩を落とす陽と、笑みを崩さずに答えるルイを雲雀は交互に見つめる。    ――どういう会話??    不可思議な内容ではあるが、二人の親しげな会話は、生徒と理事長という関係とは思えないものだった。   「……二人はお知り合いですか?」    不思議そうに尋ねると、陽がビビッと不自然に固まった。  雲雀が首を傾げていると、くす、と小さくルイが笑う。  ルイは柔らかく笑みを浮かべていた。普段は品定めでもしているのではないかと勘繰ってしまうような妖しい瞳が、楽しそうに細められ、陽を見つめる。  珍しいこともあるんだな、と雲雀がじっと観察していると、ルイが視線に気付いて、雲雀にも微笑んだ。   「陽くんのご家族とは古くからお付き合いがありまして」 「へぇ……、そうなんですか」 「陽くんのことも、小さい頃から知ってるんですよ。ねえ、陽くん? ……陽くーん?」 「……はっ!」    固まっていた陽が我に返り、慌てて「そっ! そうなの!」と答える。誤魔化すように手をぱたぱたさせている。あまりにもわかりやすい焦り方をするので、雲雀は不思議そうに陽を見つめた。   「この子、昔から自分が希少なΩ性という自覚が乏しくて」    雲雀の疑問を妨げるように、ルイが口を開く。   「警戒心がないというかなんというか……それでいて好奇心旺盛で……普段は大人しくていい子なのに、急に消えたりして、目が離せないんですよねぇ……」 「えへへ、その節はお世話になりましたぁ」    照れたように笑う陽は、今は違うとでも思っているのだろうか。  ルイが遠くを見つめて「今もでしょう……」と小さく呟いた時、雲雀は初めて彼に共感を覚えて、こっそり頷いた。  はぁ、とルイが呆れたようにため息をついて、雲雀に目を向ける。   「君にはとても期待してますよ、雲雀くん」 「はい?」 「最近陽くんと親密になさっているそうですね」 「……何か問題ですか?」 「いいえ? 大いに結構ですとも」    ルイがにっこりと楽しそうに綺麗な笑顔を向ける。   「確かに我が学園ではお預かりしている大切なこども達の間で何か間違いが起きてはならない、と規則を厳格に定めていますが、品行方正な君ならば間違いなど犯すはずはない」 「はあ、どうも」 「それに、君のような優秀で強いαが陽くんの側にいてくれれば、本能が刺激され、Ωとして正しく目覚めてくれるかもしれないし」    適当に耳を傾けていた雲雀が、顔を上げた。  ルイは相変わらず美しい容貌を笑みの形にしたままだ。意味深げににっこりと微笑んでいる。   「……ふふ、まあ思春期ですしね。お互い良い刺激になればいいですね♡」    ――……なんだこいつ、セクハラか?    宝石のような右の瞳がやたら楽しそうに光る。それが雲雀には気に食わなかった。   「陽くんも少しは大人しくしてくれるといいんですけどねぇ。あまり雲雀くんを困らせてはいけませんよ」 「困らせたことなんてないですよ、な?」    雲雀が陽に目を向けると、陽と目が合った。きっと意味も分からず「うん!」と元気な返事としてくれると思っていたが、そうではなかった。  大きな瞳が珍しく不安に揺れている。……ような気がした。    ――あれ?    目が合ったのはほんの一瞬で、雲雀が確認する前に瞳が伏せられる。次に桃色が見えた時には、陽は静かに笑っていた。   「……はい、そうします」    笑っているが、いつもの花咲くような笑顔ではない。笑顔ではあるが、花は舞わないし、お日様のような暖かさも感じない。何もない。  なんてことだ、この男のセクハラじみた発言に傷ついたのかもしれない! と、雲雀はますますルイに対する苛立ちを募らせた。     「……俺は、顔に似合わず思い切りのいい、今のままの陽が好きですけどね」      気に入らなかったから、言い返した。  お前は間違っているぞ! と抗議するようにふんっ、とそっぽを向く。  雲雀はルイに対しての抗議のつもりだった。  だから、ルイが雲雀の反撃に目を丸くしているのはなんとなくわかる。  だけど、何故陽が大きな目を丸くして雲雀を見つめているのかはわからない。    ――何? この空気。   「……そうですか」    二人揃って雲雀をじっと見つめた後、ルイがにこり、と微笑んで呟いた。   「よかったですね、陽くん」 「うん!」 「?」    二人は顔を見合わせて、にこり、と微笑みを交わした。  雲雀は首を傾げたが、陽の白い頬が少し赤みを帯びていることに気付いた。元気が出たということだろうか。  大丈夫かどうか確認したいが、時計を見ると時間が迫っていた。  最後まで二人きりでいられなかったことは悔しいが、陽を元気づけられたのなら良しとしよう。   「俺、授業の準備あるから先に行くね」 「あっ、いってらっしゃい!」 「また放課後な」 「うん、あとでねー」    ひらひらと小さい手を振る。ご機嫌も良くなったようでにこにことして可愛らしい。  いつもの陽だ。やっぱり陽には笑っていて欲しい。    ――君影ルイ、余計なこと言いやがって。    陽が笑ってくれればそれでいい。  陽はそのままで充分過ぎるほど可愛くて、俺は、そんな陽が、    ――……あれ?    突然雲雀は立ち止まった。   『俺は、顔に似合わず思い切りのいい、今のままの陽が――』      ……俺、さっきなんて言った?    ***   「……おやおや」    理事長室は学園の中心、図書館の上に位置する。  東西の校舎、中庭、中央庭園、正門を一望できる特等席を君影ルイは気に入っていた。  学園内で巻き起こる青春の煌めき、思春期の葛藤、人間関係の泥沼、成長と挫折……それが垣間見える。全面に大きな窓とカウンターが設置されているその部屋は、君影ルイ専用のシアターのようなものだった。    今日も東西の校舎の間、中庭を抜けて正門へ歩いていく二人を見つけて、眺めている。  昼休みに、ルイの前で逢瀬の約束をしていた、菖蒲堂雲雀と桃ノ木陽である。   「放課後までご一緒とは……本当に仲睦まじいことで」    なんだか懐かしい光景ですね、と誰に聞かせるわけでもなく、一人呟く。  ゆったりと目を細めていたルイだったが、ふと考え込むように顎に指を添えた。    ――付き合ってはないと聞いたが……時間の問題かなぁ……。しかしまあ、陽くんはほぼ仔兎みたいなものだから仕方ないが、雲雀くんもなかなか鈍いなぁ……。あそこまで言い切っておいて、どうやら自覚はしていないらしい。    昼のことを思い出して、ルイは呆れたようにため息をついた。    ――このままでもいいけど、順調過ぎてつまらないなぁ。どうせ付き合ってしまうなら、少しくらい波乱が起きても……    ルイが思考を巡らせていると、来客を告げる鈴が鳴った。理事長室に直接繋がるエレベーターの前で、誰かが許可を求めている。  モニターを確認して、ルイは思い出した。自分が呼び出したその生徒を見て、笑みを浮かべる。    ――ああ、そうだ。この子がいたな。      数分後、エレベーターの到着を告げる音の後、静かに扉が開く。  理事長席に腰を掛けたまま、ルイは訪問者を迎え入れた。  足を一歩前に進めて立ち止まった生徒は、美しい瞳を鋭く研ぎ澄ませて、ルイを睨む。   「……お呼びですか、理事長」 「まあ、まずは座りなさい。睡蓮」    不満を露わにしながら、大人しく呼び出しには応じる。否、応じざるをえないからこそ、不服そうな態度を隠さないことが彼にとって唯一の抵抗なのだとルイは知っていた。  部屋を一歩入っただけで、それ以上近付こうとしない睡蓮に、理事長席の前にあるソファを示す。けれど睡蓮は一瞥することさえなく、ルイを睨み続けた。   「……僕はこのままで構いません。ご用件は」 「座りなさいと言っている」 「……」    鋭さが増した藍色の眼差しを、ルイは薄っすらと笑みを浮かべて受け止める。  やがて睡蓮が先に視線を逸らした。  ルイは睡蓮の握り締めた拳にも視線を向けたが、すぐに興味を失う。  睡蓮は、ゆっくり歩き出し、ソファに腰を下ろした。向かい合う形で、なおも挑むようにルイを睨みつける。  その態度に、ルイがふふ、と可笑しそうに笑った。   「まったくお前は……いつまで経っても懐かないんだから。もっと素直になりなさい。桃ノ木陽くんを見習ったら?」 「……ッ!」    一瞬、睡蓮の青い瞳が揺れる。抑え込んだようだが、心は乱れただろう。ルイは笑みを深くした。   「食堂での話は聞いている。……お前のΩ嫌いも困ったものだ。関わらなければいいのに、自ら関わりに行くとは。……どういうつもりだ?」 「……秩序を乱す前に、牽制しただけです」    ルイが鼻で笑い、右目だけで睡蓮を捉える。   「お前がどこの誰に、聞くに堪えない暴言を浴びせようと、おもちゃにしようと、別に構わないけど、陽くんは止めておきなさい」 「……それは命令ですか?」 「〝忠告〟してあげてるだけですよ」    ルイ口元は美しい弧を描いている。   「格の違いと見せつけられて、これ以上無様な姿を晒したくないでしょう?」    嗤うルイを、睡蓮が睨む。美しい容貌を僅かに歪め、奥歯を噛み締めていた。  しばしの沈黙を、破ったのは睡蓮だった。  睡蓮は俯き、小さく笑った。   「……どうしました? 何か可笑しい?」    ルイが首を傾げると、睡蓮は顔を上げる。眼差しは、鋭くルイを射抜いたまま、口元は弧を描く。挑発的な笑みだったが、僅かに歪んだ表情が、彼の苛立ちを物語るようだった。   「……あんたのような男でも、『友人の孫』は特別のようだな」 「おや、よくご存知で」    驚いた様子もなく、ルイは微笑む。悠然とした態度が、睡蓮をますます苛立たせた。   「桃ノ木陽はあんたのお気に入りだと聞いた。……どいつもこいつも、あんな仔兎に誑し込まれて……忌々しい……!」    ――『どいつもこいつも』だって。一体誰の話をしているんでしょうねぇ?    睡蓮の中で燻る感情が、青い瞳の奥で揺らめくのを、ルイは見逃さなかった。「巣に蝶が飛び込んできた時の蜘蛛はこんな気分なのかなぁ」と考えながら、にっこりと微笑む。   「ふふ、本当にお前は愚かだねぇ。なぁーんにもわかっていない。……いや、本当はわかっているんでしょう?    ……雲雀くん、と言ったっけ?」    睡蓮の肩がびくりと震え、頑なに閉ざしていた心が、容易く隙を見せる。必死の強がりが脆くも崩れゆく様が、可愛らしい。   「陽くんはいずれ、選ばれるでしょう。お前がご執心の最上のα(雲雀くん)に」 「――……ッ!」    鋭い眼差しが今までで一番大きく揺らいだ。もはや動揺を隠すゆとりもなく、睡蓮が大きく目を見開く。  美しい翅に、くるくるくるり、と少しずつ 少しずつ、丁寧に糸を巻いていく手応えを感じ、ルイが立ち上がる。   「あの子はね、愛らしくて、歪みがない。健気で大人しく、純粋培養。清く正しい愛情をたっぷり注がれて育った、まだ穢れなき赤子のような、尊い子。  ……ややお転婆なのが玉に瑕だが……。  だからこそ愛される。慈しみ、大切にされる。  ……お前には、縁のないものばかり」    ルイが睡蓮に近付いても、睡蓮はいつものように距離を取ることさえできなかった。揺らぐ心を見開いた瞳に晒して、ただルイを見つめている。  ルイは睡蓮の目の前で立ち止まると、憐れみを込めて微笑み、耳元で、呪いを囁いた。   「お前がいくら見目麗しく、狡猾で、淫靡でも  ……あの子には到底及ばない」    睡蓮の瞳の奥に、青白い炎が激しく燃え上がる。  君影ルイは、それがただ楽しくて、笑った。

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