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14話-1 忘れ物

 イチョウの樹の下で偶然陽と会えたあの日から。  雲雀が自分の恋を自覚したあの瞬間から。  陽に会えない日が続いていた。    陽は学校を休んでいる。  定期的に同じ期間休むことがあった。  その意味がわからないほど、雲雀は幼くもないし、無知でもない。    ――発情期(ヒート)……陽もあるんだな……。    第二の性が確定するのは中学入学前の検査だが、検査前でもすでに特徴が現れ始める子供もいる。例えば、男性Ωと女性αは、身体の中の構造がすでに違っている。特にΩ性は全体的に体が弱い傾向にあるから、病院に行く機会も多く、発覚しやすいらしい。  陽も幼少の頃から、ほぼ間違いなくΩだろうと言われていたそうだ。    そういえば、雲雀の両親も何故か、検査を受ける前から、雲雀をαだと確信している様子だった。検査結果を聞いても、喜ぶでもなく悲しむでもなく、「だろうねぇ」「そうよねぇ」と、しみじみと深く頷いている両親を見て、雲雀は不思議に思ったものだ。    男性Ωと女性αに比べると、男性のαとβは、一目で分かるような特徴がほとんどない。強いて言うなら、感情の高ぶりによって現れる、αの鋭い牙くらいだろうか。しかし、それも高校に入るような年齢でようやく、『牙』と呼べるようなものになる。    そして、αの『牙』が現れるのを待っていたかのように、Ωの身体にも大きな変化が訪れる。  それが発情期(ヒート)だ。    個人差はあるようだが、陽の場合は3ヶ月に1回の頻度、期間は一週間。  これで出会って2回目だ。前回も今回も事前に休むことを教えてくれたから、陽にはタイミングがわかるんだろう。    雲雀はΩの発情期(ヒート)に対していい思い出がない。  日頃から熱烈に好意を押し付けてくる子はともかく、時折熱い眼差しを向けながら挨拶だけしてくるような奥ゆかしい子や見ず知らずの他人まで、ある日突然魅了(フェロモン)ただ漏れで迫られるなんて、トラウマ以外の何物でもない。  甘いと称されることが多い魅了(フェロモン)を、雲雀のαの本能は受け付けなかった。目眩と吐き気さえ引き起こす強い拒絶反応に、雲雀自身も驚いたくらいだ。  しかし、それよりも、正気を取り戻したΩの青褪めた顔や暴力的な本能に苦しむ姿があまりにも憐れで、胸が痛くなる。同情や憐れみでΩを抱くような柔軟さを自分は持っていないし、これからも持つつもりはなく、どうしてやることもできなかった。    ――……陽もそうなのかな……。    これまで目にしてきたΩ達の姿が陽に重なる。  息を乱し、頰を染め、瞳は潤んで艶めく。  縋るように見つめて、小さな唇を震わせる。  そして、「たすけて」と求められたら、きっと自分は。    ――陽、大丈夫かな……。    扇情的な姿を想像しても心は高揚せず、一人で耐えている陽を想い、雲雀は静かに胸を痛めていた。    ***   「陽くんっすか? 結構元気でしたよ? 心配性だなぁ、雲雀くんは」 「あ?」 「ひっ」    雲雀の鋭い眼差しと思いの外低い声が茶々丸に向けられた。銃口でも突きつけられたかのように、茶々丸は悲鳴を上げて固まってしまう。  陽が休んで4日目。辛い発情期(ヒート)の最中だろうと、電話や連絡を控えていた雲雀の機嫌は過去最低を記録していた。   「なんでてめぇが知ってんだよ」 「こ、こわぁいッ!」    八千代さぁん!! と縋るような目で八千代を見るが、八千代は目を逸らしてしまった。  口を滑らせたお前が悪い、自力で乗り越えろ、と獅子は子分を谷底に突き落としたのだ。   「ちょ、ちょっとまって、聞いてください! ちゃんと事情があるんで!!」 「へぇ、どんな?」 「陽くん、今日返却期限の本返すの忘れてたみたいで! 代わりに俺が取りに行って、返しただけなんすよ! ……いや、何もないから! ほんとに! それだけ!」    雲雀がなおもじっと睨み続けるので、茶々丸は必死に弁明を続けた。   「俺はβだし、魅了(フェロモン)もちょっと甘い香り? ってのはわかるけどあんま効かないし、たまに知り合いのΩのお姉さんにも頼まれるんすよ。巣籠もり中の茶々丸特急便! もちろん有償! ただのお小遣い稼ぎ! まあ陽くんはお友達だから金なんて取らないけど、一応いつでも呼んでって言っておいたから多分それで! ねっ!?  ……ねぇ、牙見せつけて威嚇すんのやめて?」    爆炎の貴公子が今にも自分を焼き尽くしそうで、茶々丸はできるだけ穏便に、慎重に、声をかける。  けれど、雲雀を鎮めることはできそうもなかった。   「なんでお前に言うんだよ。俺だってそれくらい」 「いやだめっしょ?!」 「あ? なんでだよ」 「陽くん発情期(ヒート)ってことで休んでんの! αの雲雀くん呼ぶわけないでしょうが!」    ぐっ、と雲雀がわかりやすく奥歯を噛み締める。   「……お前にできるんなら俺にだってできる」 「雲雀くんってほんと顔に似合わず酷い負けず嫌いだな! どこで張り合ってんの!? 仕方ないでしょ?! αなんだから!」    わがまま言わない! と茶々丸が続けるが、雲雀は納得いかなかった。茶々丸をまた睨んだ。   「怖いなぁもう! これだからΩにべた惚れのαは嫌なんすよね!」 「おいバカ茶々丸ッ」 「あっ」    それ以上突っ込むな、と止めようとした八千代の制止は間に合わず、茶々丸も口を抑えたが遅かった。    〝こういう〟話をすると、雲雀は「〝そういうの〟じゃねぇから」とものすごく怒る。仔兎のような陽を大事にして「余計なこと言うな」という意味で怒っているのかと思っていたが、そうでもないらしい。   『雲雀が魔性のΩに付き纏われている』という噂が彼らの頭の中から掻き消え、『陽くんと仲良くなりたいならば、雲雀を通さなければならない』という認識に切り替わるのは早かった。  しかし、肝心の本人達の関係はいつまで経っても何の進展も見られないので 「そんな、まさか、あれだけやっといて無自覚……? こわ……αってやつはこれだから」 「茶々丸、シッ」 「ウィッス」  ……などという八千代と茶々丸の会話も記憶に新しい。  αとΩっていうのはそういうものなのか? と仲間たちの間で首を傾げたものだ。    それからは、2人の関係は〝そういうもの〟なのだと、深く触れず、突っ込まず、雲雀の逆鱗に触れる者が現れぬよう、密かに見守っていた。  ……というのに、うっかり口を滑らせてしまった。    恐る恐る雲雀を見ると、予想通り、形の良い眉を吊り上げ、端正な顔立ちには苛立ちが滲んでいた。   「いやそのぉ、今のは言葉のあやっていうかぁ……」 「悪いか?」 「え?」 「べた惚れで悪いか?」    予想通りの表情から想定外の言葉が零れ落ちてきて、二人は目を見開いて固まる。  雲雀は苛立ちを露わにしているだけだ。それも、自分は会えないのに、茶々丸だけ陽と会えてずるい、というだけの。  大胆な発言にも関わらず、恥じらいも後悔もなく、開き直っている様子もない。    つまり彼は〝それ〟を、すでに純然たる事実として認めているということで……   「あっ雲雀ー! 睡蓮が呼んでるってー」 「チッ!!」 「ひぃっ!?」   『睡蓮』という単語に、全ての憎しみと怒りを込めたような舌打ちが響く。雲雀は立ち上がって歩き出すが、呼びに来た生徒はブルブルと震えていた。優しい雲雀を呼びに来たのに、向かってくるのは不穏なオーラを漂わせる修羅だ。そんなつもりで呼びに来たわけではないだろう。   「……ごめんごめん。あいつ、何だって?」 「あっあっ…よ、呼んでこいって……ご、ごめっ……」 「そっか、ありがとな」 「え…あ、うん……??」    雲雀はいつものような爽やかな笑顔を見せたので、呼びに来た生徒も混乱した。何だろう今のは、幻か? と首を傾げる。雲雀はそのまま睡蓮のもとへ戻っていった。    残された八千代たちは我に返ったが、呆然としていて、雲雀を見送ってしまった。   「……マ、マジっすか? まさかついに……やっと……?」 「……」 「や、八千代さん! 元気出して!! 赤飯炊きましょう!! ね?!」    今日はいくらでもお付き合いするんで!! と茶々丸は叫ぶ。可愛い心友の突然の成長に、寂しさが込み上げ言葉を失う、我らが大将の心を慮って。

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