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14話-2 忘れ物

 陽の姿も気配すら感じられない、雲雀にとって最悪の一週間がようやく幕を閉じた。    何故か睡蓮に映画に誘われたが、断った。    ――当たり前だ。なんで休みの日にまであいつなんかと。他に友達いねぇのかよ。……いないか。そもそも俺だって友達のつもりねぇしな。    特に何をするわけでもないけど、外に出て街を歩く。  颯を一人で置いていくのは気掛かりだったが、颯も園芸部の仲間と出かける予定だと聞いて安心して家を出た。  ついでに、雲雀が出掛けてすぐ、睡蓮が訪ねてきたというメッセージが颯から届いた。    ――何で家知ってんだよあいつ。気持ち悪ぃ。    家を出たのは正解だった。告白ラッシュに文化祭準備、そして睡蓮からの執拗な呼び出しと付き纏い。煩わしいものからようやく解放されて、とにかく一人になりたかった。    ――週が明けたら、陽も学校にいるはずだ。校内で会えたら、睡蓮なんて放っておいて連れ出そう。睡蓮はあの見た目で花が嫌いらしいから庭園に逃げ込んでやる。    誰もいない庭園に逃げ込んで、陽に触れて、撫でて、抱き締めて、暖かさと柔らかさを味わいたい。傷つけないように、齧り付きたい。もう離さない、と強く抱き締めたい。  ずっと会いたかった、こうしたかったと伝えたら、陽はどうするだろう。    ――……なんて、さすがに急ぎ過ぎ。    だけど、話がしたい。穏やかにのんびりとした声で、柔らかい眼差しで、小さな唇で、一生懸命喋るのを見ていたい。    ――俺って、こんな情けないやつだったっけ?    日常に不満があるわけじゃない。昔からみんなの輪の中心が俺の居場所だった。目立つ容姿と色を持って生まれ、大抵のことはできた。いつでもどこでも何をしてても、必要とされ、求められ、愛されるのが当たり前。  だけど、心は満たされなかった。  足りないんだ。何かが。  ぽっかりと一人分、心に空洞があるみたい。  だから、ずっと待っていた。    陽が俺の前に現れた時から、そんなことも忘れていた。  満たされることを、知ってしまった。  もうきっと、戻れない。    ――まあ、戻りたいとも、思ってないけど。    ポツリ、と零れ落ちた本音と共に、足元のアスファルトが一滴分、濃い色に変わった。  続けて、ひとつ、ふたつ、みっつと、増えていく。   「……雨?」    見上げればいつの間にか空は、暗く重い雲に覆われていた。ポツポツ、と雲雀の頬に、額に、冷たいが雨粒が落ちてくる。   「マジかよ……」    陽を静かに想っていたいのに、邪魔をするなんて。  まるで睡蓮だな! ムカつく! と雲雀は駆け出した。    ***    空を見上げても、雲が晴れる気配はない。雨が強くならないうちに家まで駆け抜けてしまおうか、少し迷う。  けれど、視界に懐かしいカフェを見つけて、店の前のオーニングの下に逃げ込んだ。    陽と来たことがある、本屋と併設された小さくて静かなカフェだ。楽しそうにしていた陽を思い出して、思わず頬が緩む。  また一緒に来たいなぁと思いながら、少し濡れた顔を袖で拭いた。  雨の匂いの中で、ふわりと甘い香りが鼻腔を掠めた気がして、はっとする。   「あっ」    香りの後に、声と視線に気付いて、雲雀は目を向けた。   「……え?」    同じ屋根の下、数メートルも離れていない隣の本屋の前。  陽が、ぽかんと口を開けている。   「……陽?」    雲雀の問いかけに、陽は小さく頷いた。  雨音が響く中、二人は静かに、しばらくの間見つめ合う。      どうして、陽は、  会いたくて会いたくて、心が壊れそうな時に、現れてくれるんだろう?      雨に混じって、日向と花の香りがうっすらと香る。  陽と二人っきりだった、春の花園にいるような、そんな錯覚さえ引き起こす。雨音だけが、雲雀にこれが現実だと教えてくれていた。  陽が目の前にいるという、現実を。    雲雀は引き寄せられるように、ゆっくりと近付いていく。数歩で縮む距離が、やけに遠く感じた。   「どうして陽がここに……? (ヒー)…あ、いや……休みだったんじゃ……?」    公の場で誰が聞いているかわからないので、直接的な単語は避けた。  代わりに、外に出て大丈夫なの? と問えば、陽は少し困ったように「あー……」と呟いた。   「……おれ、上手く発情期(ヒート)起こせないから、お薬飲むの。5日ぐらいでいつも終わっちゃうんだ」 「……そうだったんだ」    雲雀は、陽の休みが定期的で同じ期間である理由を理解した。休みの前に予告できるのも、薬を飲み始める時期が決まっているからだろう。   「元気そうで良かったよ」 「ご心配をお掛けしております……」 「ふっ……なんで敬語?」 「久しぶりで緊張するの……」    陽が恭しく頭を下げるから、雲雀は思わず吹き出した。久しぶりに笑った気がする。  陽も緊張するのかと思うと、肩の力が抜けていった。自分も緊張していたみたいだと、雲雀は気付いた。   「本当はまだ外に出歩いちゃだめだよって言われてるんだけど、今日は小説の発売日だったから我慢できなくてこっそり……」 「悪い子だなぁ」 「面目ない……」    照れている陽は可愛いが、雲雀は内心ひやりとした。    ――無防備過ぎる。    外出を制限されているということは、まだ薬の影響があるかもしれないということだ。  今も確かに、花の香りがふわふわと舞っている気がする。言われてみれば、という程度だが、いつものお日様と花の香りがほんの少しだけ甘く感じる。    ――だとしたら、全然、嫌じゃない。    今までの拒絶反応を思い出して身構えてしまったが、陽の纏う香りやお花の舞う幻が魅了(フェロモン)の影響だとしたら、自分はずっと前から陽を受け入れていたことになる。    ――ほんとに、にぶすぎ。    仔兎のような陽には魅了(フェロモン)なんて出せないだろう、出せてもお花くらいだと思っていた。  けれど、今までのも、もしかしたら魅了(フェロモン)なのかもしれない。薄々そうじゃないかとは思っていたけれど、「でも、陽だしなぁ」なんて、甘く見ていたことを反省した。   「早く帰ろうと思ったんだけどね、気付いたらこんな時間でね、帰らなきゃー! って思って、外出てみたらこの雨でしょ? ツイてないなーって」 「そうだなー」    雨を眺めながら陽に同意したけど、全然ツイてなくない。今年の運を使い果たしてもいいくらいの幸運だ。    陽に会えたら、声を聞いて肌を撫でて噛み付いて抱き締めたいと思っていたけど、雨に全部洗い流されていくみたい。  こうして隣で、陽を感じられるだけで、想像よりもずっと幸せだった。   「でも、雲雀に会えた」 「……っ!」    ハッとして陽を見つめる。陽も雲雀を見つめて、零れ落ちそうな笑顔を向けていた。   「ちょっとツイてるかも」    弾んだ声が、陽の心を全部表しているようだった。    ――やばい、抱き締めたい。    陽の存在を感じられるだけで幸せだったのに、どうして、それ以上を望ませるんだろう。それ以上に幸せにしてくれるんだろう。    雲雀は込み上げる衝動を抑え、愛しさで潰れそうな心臓にぎゅっと手を添えた。   「……俺も、そう思ってたとこだよ」    努めて平静を装い、ゆっくりと陽に微笑み返す。  陽はきょとんと目を丸くした後、俯いてしまった。    ――どうしたんだろう?    俯いてしまったから表情はわからないが、まるい頬も小さな耳も白い首筋も赤く染まっている。ぽぽぽ、と湯気も出そうだ。落ち着いていた魅了(フェロモン)と思われる香りも、ぽわぽわ舞う。    急に雲雀は心配になった。    ――……やっぱりまだ調子良くないのかな? 薄着だし、肌寒い季節だし、風邪引いたら大変だ。    それに他のαに気付かれたくない、と雲雀は強く思った。   「送ってくよ。家近いの?」 「えっでも」    パッと顔を上げた陽は、やっぱり頬が赤い。大きな瞳も潤んでいる。雲雀は確信した。   「まだ本調子じゃないんだろ? 俺の家もこのへんだからさ、送ってくよ」 「……ありがとう」 「どっち?」 「実はあそこのマンションの下の家」 「え? マジ?」    歩いて5分程度だろうか、他の建物から抜き出ているマンションを陽が指差した。マンション下に、このあたりでは珍しい、大きな日本風の屋敷の屋根が見える。   「俺のうちは、向こう側のマンションなんだ。結構近かったんだな」 「うん」 「……?」    驚く雲雀とは対照的に、陽は頷くだけだった。  うん、って何? と雲雀は首を傾げるが、陽がクシュン、と可愛いくしゃみを1つした。  こうしている場合じゃない、と雲雀は陽の肩を暖めるように擦る。   「じゃあ、いこっか」 「え? でも雨が」    見上げた陽に、雲雀が上着を被せる。  少し大きい上着が陽をすっぽりと包み、雲雀の体温の名残が冷えた体を暖めた。   「このままじゃ風邪引くよ。いこ」 「……! うん!」    まるで二人の再会のために降った雨の中を、二人っきりで駆け出した。

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