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14話-3 忘れ物
「雲雀大丈夫……?」
「全然平気」
――嘘、ちょっと寒い。
だけど、陽の大きな瞳が潤んで揺れている。心配かけないように、と雲雀は笑顔を作ってみせた。
雨脚が弱まったのを見計らって駆け出したが、秋の雨は思っていたよりも冷たかった。
桃ノ木の屋敷とマンションのエントランスは共通らしい。陽がオートロックを解除して中に入れてくれたおかげで一時的にではあるが、雨は凌げた。
「ごめんね、上着借りちゃって……」
「いいんだ、俺がそうしたかっただけだから」
上着を受け取ると、陽は無事だった。それで何もかも報われる気がした。
「ありがとー」
陽が笑う。顔の赤みは引いたみたいだけど、ぽわぽわと陽の優しく甘い香りが漂う。
やっぱり本調子じゃないんだ、と手を伸ばそうとした自分をぐっと抑えた。
離れがたい。
名残惜しい。
――やっと会えたのになぁ。
けれど、何よりもゆっくり休んでほしかった。陽の身体が一番大事だ。苦しい思いはしてほしくない。
「……じゃあ、また学校で……」
「えっ!」
大人しく出口に向おうとしたのに、陽がその腕を掴んでしまった。
「あがっていって! ちゃんと拭かないと風邪引いちゃうよ!」
「……っ」
冷えた腕に、柔らかい手が暖かい。
抱き寄せて暖を取りたい衝動が暴れ回る。
「……いや家近いし。悪いよ」
「今日は親帰ってこないし、気にしなくていいよ!」
「そ、そっかぁ……」
気にしてほしいな! 俺の為に! とは言えなくて、曖昧に微笑むしかない。
傘だけでも! と陽が続けて、腕を引っ張る。「風邪引いちゃったら大変だよ!」と、雲雀を連れて行こうとする。
絶対連れて行く、という強い意志を感じた。
……そう、気持ちだけだ。力がびっくりするほど伴っていなくて、雲雀はびくともしてない。なんだか申し訳なくなるほどだ。
一生懸命引っ張ってもこの程度の力なんだと思ったら、愛おし過ぎて胸が痛い。振り払うなんて、とてもできなかった。
***
「風邪引いたら大変!」「万病の元なの!」「大変なことになるの!」と心配してくれる陽に逆らう気など起きるはずもなく、雲雀は促されるまま陽の家へ、そしてそのまま風呂場へと押し込まれた。
「しっかり暖まってね!」と陽が扉を閉めたところで、雲雀は大人しくシャワーを浴びて、陽の言いつけ通り身体を暖める。
あがってみると、タオルと浴衣が用意されていた。珍しくて、広げてまじまじと見つめる。
見つめていて、そういえば、と思い出した。陽は普段は和装で過ごしているんだった。
(ということは、これは陽の……?)
気付いてしまって、自分の中のαが荒れ狂う。
雲雀は心を無にすることで、なんとか冷静に着替え終えることができた。けれど、ちょっと丈が短いのを確認してしまって、また理性が崩れ落ちる。
――……そうだよなぁ、陽のだもんなぁっ……!
できるだけ意識しないようにしていた『陽の浴衣を着ている』という現実と、具体的な陽との体格差を目の当たりにして、思わずこめかみを抑える。荒ぶるαを鎮めようとじっとしていたが、扉を控えめに叩く音に顔を上げた。
そーっと引き戸が開いて、隙間から小さくて可愛らしい顔が覗き込んできた。
――妖精? ……いやいや、陽だ。
「……浴衣大丈夫だった?」
「うん、大丈夫。ありがとう。陽も濡れたろ? 先にごめんな。入りな?」
「うん!」
元気の良い返事にホッとしたのも束の間、陽は首の刺繍入りチョーカーに手をかける。それを何の躊躇もなく外してしまった。
「えっ」
「?」
思わず固まった雲雀に、陽は首を傾げている。だが、特に気にした様子もなく、すぐに服を脱ぎ始めてしまった。
慌てたのは雲雀だ。
白い首筋は晒され、傷一つない背中に、薄い胸には淡いピンクが2つが視界に入った。
「あっ、じゃあ、俺っ、出てるね?」
陽の返事を待たず、横をすり抜ける。後手で、ばんっと引き戸を閉めて、速やかにその場から離れた。
「……はぁ――…………」
陽に聞こえないように、少し廊下を歩いてから、息をついた。自分自身との戦いに疲れ切って、ヨロヨロと廊下を進む。
(意外と豪快に脱ぐんだもんなぁ……。もうちょっと警戒してくれても……同じ男でもαだし……)
ため息は溢れるが、「でも、そういうとこが可愛いんだよなぁ」と一人で納得して、うんうん、と頷いた。
(このあとどうしたらいいんだ……? 服が乾くまでの待つ? いやもういっそこのまま帰るか……)
雲雀は悩みながらリビングの扉を開けた。
「いらっしゃい」
聞き慣れた声にパッと顔を上げる。
広いリビング・ダイニング、その奥のソファに優雅に腰掛けているのは月詠だった。着ているのは浴衣で和装だが、繊細な薔薇が描かれたティーカップがよく似合う。
「陽から聞いたわ。雨が降って災難だったわね」
どうぞゆっくりしていって、と月詠は続けた。
雲雀は目を見開いて固まっていたが、数秒後、我に返る。
――……そりゃあいるよなー。『親はいない』としか言ってない。
ほっとしたような、がっかりしたような、複雑な気持ちで雲雀は曖昧な笑顔を浮かべた。
「私がいたらなにか不都合でも?」
――あれー? 心の声出てた?
じっと見つめる月詠の瞳に何もかも見透かされている気がする。雲雀は今度こそ、いつも通りの笑顔に切り替えた。
「そんなことないよ。お邪魔してます」
「はいどうぞ」
「え?」
目の前に、月詠と同じ柄のティーカップが差し出された。
湯気とともに、紅茶の香りがふわりと香る。
「雨に濡れて冷えたでしょう? 座って、ゆっくり暖まって」
――や、優しい……!
風邪でも引いたら大変、と兄妹揃って同じように気遣ってくれる。いつもは鋭い彼女の声が、穏やかで柔らかく、心遣いが染み渡る。
そうだった。陽も優しいが、月詠だって優しいのだと雲雀は思い出した。
日頃は厳しく冷たく、皆に畏れられる完璧な美少女だが、誰にでも臆することなく立ち向かう公平さは、他人への気遣いがあってこそ正しいものとなる。
無闇矢鱈に牙を向けるだけが公平ではない。傷付け、厳しくあるだけでは睡蓮と同じだ。
彼女が学園の頂点に君臨し続けるのは、偽りのない優しさを併せ持つからだ。
それが人気の理由なんだろう。
雲雀もそんな彼女を尊敬しているし、好ましく思った。
「今日はありがとう」
「……え、何が?」
「陽に上着かけて、濡れないようにしてくれたんでしょう? 代わりにあなたはずぶ濡れ」
「ああ、そんなこと……平気だよあれくらい」
雲雀は軽く笑って見せたが、月詠は真剣な表情で雲雀をじっと見つめていた。思わず緊張が走る。
「……陽がなんで途中から編入してきたか聞いた?」
「……? いや?」
「そう……」
突然話が替わって、雲雀は首を傾げた。
月詠は少しの間、考えるように視線を逸らす。彼女にしては珍しい。いつも真っ直ぐ見つめてくれる眼差しが、少しだけ迷うように揺れた。
けれどそれも一瞬のことで、彼女の眼差しは再び真っ直ぐに、雲雀へと向けられた。
「……陽って生まれた時から体が弱いの。入学が遅れたのも、入院していたから。……風邪が悪化してしまって」
「……そうだったんだ」
「こんな雨で濡れて帰ってきたらしばらく寝込んでいたわ」
「そ、そんなに……!?」
「そう、脆いの」
跳ね回っているけどね、と月詠は呆れたような、可笑しそうな、小さな笑みを零した。
雲雀は月詠の言葉に、ああ、だからか、とひどく納得した。陽がずっと『風邪を引いたら大変!』と焦っていた理由がわかった。
陽が発情期 以外ではあまり休んだところを見なかった。月詠が言うように、いつも元気に仔兎のごとく跳ね回っていて、目が離せないほどだ。けれど、陽はその裏で、ずっと自分の脆さとも戦っていたんだろう。
だからこそ、雲雀の心配をしてくれたのだろう。なんて優しくて、愛しい生き物なのだろう、と雲雀の胸が暖かくなる。
「役に立てたなら良かったよ。俺も陽に元気でいてほしいから」
月詠の桃色の瞳が少し驚いたように丸くなる。それからやんわりと細められて、笑みを浮かべた。陽と同じ笑い方だ。
「私からもお礼を言わせて。……ありがとう、陽を守ってくれて」
――本当に瓜二つだ。
花が咲いたみたいな、柔らかで優しい微笑みに雲雀は目を奪われた。月詠の優しい微笑みが直撃することも、手厳しい月詠から褒められるのもなかなかないことだ。
何だか気恥ずかしくて、思わず俯いてしまう。
「……そんな、お礼を言われるほどのことは……」
「これからも、陽をよろしくね」
「……ん?」
雲雀は顔を上げた。
目が合うと、月詠はにっこりと清々しく微笑む。
「私は部屋に戻るので……あとはもう、お好きなように……」
「……あれ? え? 月詠ちゃん??」
優しく囁いて、月詠が立ち上がる。すでにティーカップを片付け、トレイに乗せていた。
ハッと我に返った雲雀に、月詠はまたにっこりと微笑んだ。
「ごゆっくり」
有無を言わさぬ、美しくも凄みのある微笑みだった。
ふふふ……と可憐な笑い声を残して去っていく背中を、雲雀は見送ってしまった。
――『ごゆっくり』の言い方と笑い方が陽にそっくりだ。……いや、そうじゃねぇ。
雲雀はぶんぶん、と首を振った。
――あの子、どこまでわかって……?
『あとはもう、お好きなように』
――…………えぇ……? いいの? マジで?
月詠の言葉が脳内を駆け巡り、残響がこだまする。
一番の難関と思われた女帝のお許しに、雲雀はしばらく呆然としていた。
***
ドアが開く音で、雲雀はようやく我に返った。
顔を上げれば、陽がきょとん、とした顔で立っている。あれ? と首を傾げ、きょろきょろとリビングを見回した。
「……月詠ちゃんいなかった?」
「あー部屋に戻っ……た、よ」
雲雀の動きが一瞬固まったが、陽が「そっかー」とのんびり答えている。
雲雀は陽から視線を背けるように、ゆっくりと俯いて、目を伏せた。肘を膝の上に立てて両手を組み、その上に額を乗せるように俯く。崩れ落ちそうな理性と己自身を支えるかのように。
――何で首に何も付けてねぇんだよ……。月詠ちゃん戻ってきて……。
浴衣の陽は、白いうなじが眩しい。
風邪など引かないよう、しっかり暖まったのだろう。しっとりとした肌は淡く染まって、いつもより艶やかに見えるし、ぽわぽわと甘く香るようだった。
――落ち着け俺……陽は家に帰ってきてくつろぎモードなだけだ。テレビ電話の時に何度も見たはずだ。深い意味はないんだ。ただ、俺に対する警戒心がないってだけで「雲雀もおれの部屋くる?」
「……」
必死に自分に言い聞かせていた雲雀は目を開ける。思考を遮ったのんびりとした声の方に、ゆっくりと顔を向けた。
純真無垢な瞳をじぃっと見つめるが、陽はにこっと笑って、首を傾げている。
陽じゃなかったら、誘われてるんだな、と考えただろう。自惚れではなく、今まで出会ったΩはそうだった。
積極的な子であれ、消極的な子であれ、運命を求めて、Ωの性を利用する。悪いことじゃない。
彼らが自分の中のΩに振り回されることなく、暴力的な本能に苦しめられることもなく、平穏に生きる為に必要なのだろう。理解ってはいるが、雲雀には応えられない。
だから、普通なら断って帰っている。
でも、陽は。
――何も考えてなさそう……。
雲雀の牙は、立派に成熟しつつあり、いつでもΩを番にできるだろう。体格差や力の差も歴然だ。今すぐ陽の細い身体を抱き寄せて、ソファに組み伏せ、貪り喰うこともできてしまう。
だけど、陽は相変わらず、にこにこと笑っている。雲雀が涼しい顔の下で本能や欲望を燻ぶらせているなんて、考えもせず、微笑んでいる。
だから雲雀もつられて、表情が緩んでしまう。荒れ狂うαのことを忘れて、肩の力が抜いて、知らないうちに笑ってしまう。
こういう純粋さ、無防備な姿、無邪気な笑顔を大事にしたい。曇り一つない信頼を、裏切るようなことは絶対にできない。
どうかそのままでいてほしい、と心から願う。
「……? 雲雀? いこ?」
返事はないが、陽は雲雀に手を差し出した。雲雀がその手を取ってくれると信じて、疑うことはないだろう。
雲雀は、その信頼に応えるように、綺麗な微笑みを見せて、陽の手を握りしめた。
「……うん」
そのままの陽でいてほしい。
けど、
――……誰にも、渡したくないなぁ。
白く柔らかい手は、いつもより少しだけ、しっとりと熱かった。
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