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16話 大きな紅葉の樹の下で

 ――それは、たった一年前の話。    はらり、はらりと、イチョウが舞い落ちる中、頬を染め、瞳を潤ませる愛らしい少女の姿があった。自分の心を惜しげもなく晒して、必死に訴えかける。   『貴方は私の運命』    それを、苦しそうに、優しく微笑んで拒む、凛々しく美しい少年。  受け入れられなかった愛を抱えて、少女は走り去っていく。  心優しい少年は少女の涙に、小さくなる後ろ姿に、胸を痛めているだろう。  けれど、少年の瞳は遠くを見つめ、心はここにない。   「……ハハッ」    彼らを眺めていた睡蓮は、それがどうしようもなく愉快で、笑っていた。       「運命、か……」    告白を断った後、雲雀は一人になりたくて、屋上に足を運んだ。  けれど、屋上への扉を開けた途端、聞き覚えのある声が届いて、顔を顰める。顔を上げれば、屋上の柵の前で白銀が美しく靡いていた。   「自称『お前の運命』、今週で何人目だ?」 「……見てんじゃねぇよ、趣味悪ぃ」    ますます嫌そうにため息をつく雲雀に、睡蓮の蒼い眼差しが、愉快そうに細められた。   「……お前も他人のこと言えねぇだろ」 「僕はその気もないのに誰彼構わず優しくして、期待を持たせるようなことはしないんでね」 「……」    雲雀が、臍を曲げたように、むっと眉を寄せる。  常に凛々しく優しく、完璧な男が、こうした子供じみた表情を見せるのは自分だけだと、睡蓮は知っている。    雲雀も自分自身の行いに心当たりがあるのだろう。言い返すことはせずに、代わりに疲れたように長いため息を吐いた。  踵を返すと、屋上出入り口の近く、塔屋の屋根への階段を登っていく。  睡蓮はその背を眺めて、勝ち誇ったような笑みを浮かべると、後を追った。        塔屋の上で、雲雀は寝転がっていた。  目を閉じていたが、睡蓮の気配に気付くと目を開け眉を寄せる。  それが可笑しくて、楽しくて、……少し嬉しかった。   「何だ、サボりか?」 「……何でついてくんだよ」    帰れよ、と雲雀が睨むが、睡蓮はさらに楽しそうに笑った。   「この僕が付き合ってやろうと言っているのに?」 「他人がいると眠れねぇんだよ。……お前がどっか行かないなら俺が行く」    雲雀が起き上がろうすると、睡蓮が跨って肩を押し返した。覆い被さって、両手を顔の横につくと、雲雀が苛立たしげに表情を歪める。  睡蓮は真正面からその鋭い眼差しを受け止め、挑発するように笑った。   「連れ出してやろうか?」 「……はぁ?」 「ここではない、どこか遠くへ」    ――誰も僕らを知らない、求めない、自分を奪われない、静かな場所へ。    雲雀が目を丸くして、睡蓮を見つめる。  心を頑なに閉ざした男の青灰色が僅かに揺れたことに、睡蓮は笑みを深めた。    睡蓮は、雲雀の鋭く強い瞳が揺れる時、完璧な彼が乱れる時、自分は彼にとって、唯一無二の対等な存在であると確信する。  誰もが愛し、求める、最上のαにとっての唯一無二。  誰も彼の特別になれず、数多のΩさえ彼の心を得られないというのに、自分だけは唯一なのだ。  その確信は、睡蓮に何物にも代えがたい喜びと優越感を与えていた。    睡蓮は、自分と同等の(α)である男が、何を望んでいるのか手に取るように解ると思っていた。  疲れ果て、心を擦り減らすこの優しい男が、どうしたいのか。    だから、目を細めて、誘惑するように、囁いた。   「逃げてみないか? 僕と一緒に」    ――僕はお前となら、どこへでも行ける気がするんだ。    心だけに留めた言葉は、眼差しに乗せる。  雲雀はしばらくの間、睡蓮を見つめていた。目を見開き、心を閉ざすことを忘れているかのように、瞳は揺れる。    けれど、暫くすると、ふっ、と穏やかに微笑んだ。   「……俺は……――」    ***    ――時は、現在に戻る。    その日睡蓮は、中央庭園の前にいた。  会議室から出ていった雲雀が戻らないので、睡蓮もまた校内を巡ったが見当たらず、気付けばここに来ていた。    紅葉の赤が庭園を染め上げて、秋の物悲しさを美しく彩り、学園にいる者達の心を慰める。  しかし、今の睡蓮にとっては、目障りでしかなかった。    ――何故、僕がこんなところに……っ!   『あの(Ω)』が来てから、不気味なほど人が群がるようになった花園。生徒達の心まで変えていく、おぞましい場所。  睡蓮は一度も足を踏み入れたことはなく、それどころか、近付いたことすらなかったというのに。    忌々しげに睨み、思わず門を掴む。すると、門が僅かに開いた。  睡蓮はハッとして肩を震わせ、手を離してしまう。    ――閉園の時間は過ぎているはず……?    門はゆっくりと開いて、止まった。  紅葉が舞い落ちていく奥で、庭園が垣間見える。あの男が作り出した庭園が、待っているような気がした。    心がざわめき、足が竦む。  行くべきではない。これ以上、見てはならない。  本能が警告しているのに、少しでも怯んだ自分を、睡蓮のプライドが許さなかった。   「……っ……」    睡蓮は、僅かに開いた門を押し退けて、中へと踏み出した。    ***   『俺は行かない』 『待ってるんだ』    一年前、雲雀はそう言った。  断られるとは思わなかった睡蓮は僅かに目を見開いた。  激しく傾ぐ心を押し隠して、誰を? と問うと、雲雀は曖昧に微笑んだ。   『わかんないけど、昔から誰かを待っている気がする』 『お前は馬鹿にするだろうけどな』        ――あの日、雲雀の心を知った。    毒や棘で乱して手に入れる怒りや憎しみではない、奥底の心。心にぽっかりと空いている、一人分の空席。  自分はまだ、そこに至らないのだと、知った。    ――僕は、最上のαの、唯一無二で、対等な存在であるはずなのに。    屈辱だった。  全てにおいて、自分より優れた者などいないが、彼だけは認めてもいいと思った。  揺るぎない自信を、誇りを、穢された。  どうしたら、思い知らせてやれるだろう?    ――ならば、その空席を、僕という存在で埋め尽くしてやればいい。    ……そうやって雪辱に身を燃やすことで、微かな胸の痛みをなかったことにしたんだ。        睡蓮は、草木のトンネルの中をゆっくりと歩く。  一歩一歩、何かを恐れるように、  息を潜めて、  数多の草木に身を隠して、  竦む足を、無理矢理前へ、進ませた。    あと数歩で、広場へのトンネルを抜けるというところで、睡蓮は足を止めた。  出口は夕暮れ前の優しい色で輝いているというのに、足が竦む。それ以上先に進むことを本能が拒み、激しく暴れる、心臓の音が五月蝿かった。    ――なのに、どうして、こんなにも惹かれる?    ふらり、とよろめきながら、睡蓮は光の射す方へを歩き出した。    出口の前で、立ち止まり、顔を上げた。  広がる、光の花園。ひらりひらり、と紅葉が舞い落ちて、降り注ぐ光景に    雲雀がいた。   「――――ッ……!」    睡蓮は目を見開く。  呼吸も忘れて、ただ、その光景を見つめた。        雲雀は言った。ずっと、何かを待っているのだと。 『それが、俺の運命ってやつなのかも』と、微笑んだ。        雲雀は、光の花園で眠っていた。穏やかな寝顔に、木漏れ日が降り注いで、白い肌も、亜麻色の髪も、同じ色の睫毛さえも、淡く煌めくかのようだった。    だが、それよりも、睡蓮が目を惹かれたのは――    慈愛に満ちた微笑み。  春色の眼差し。  白く柔らかい、暖かそうな手。  自分の膝の上で眠る雲雀を、その憩いのひとときを、ゆるやかに見守る。  陽だまりのような男。    桃ノ木陽。       『他人がいると眠れねぇんだよ』   「…………嘘つき……」      目の前にいるのに、手を伸ばすことさえも躊躇う。  遠くて、届かない。  すべてが満ち足りた幸福が、睡蓮に突きつける。  見せつけてくる、たったひとつの現実。    ――わかって、いた。        僕は、選ばれない。      ***     「……?」    陽は、ゆっくりと顔を上げた。  大きな桃色の瞳を、広場の出入り口へと向ける。    誰も、いない。  花や草木がさわさわと揺れるだけだった。  けれど。    ――……? 誰か、いなかった?    誰かが、呼んだような気がした。

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