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17話 残り香

   『ひばりー』    大きな桃色の瞳が見上げる。  花のような、無邪気な笑顔が、心を暖かいもので満たしていく。  思わず小さな手をぎゅっと握った。    可愛くて、白くて、暖かくて、柔らかい。  まるで、陽だまりからこぼれ落ちてきたみたい。  この子を守るために生まれてきたのだと信じて疑わなかった。  なのに――    『ひばりっ、ひばりぃっ』    大きな瞳が潤んで、涙が零れ落ちる。手を伸ばすけど届かない。  なんて短い腕、小さな手。無力な自分。  あの子を守るために生まれてきたはずなのに。  あの子以外、いらないのに。  離れていく。  どこか遠くへ。   『……もう会えないの?』    曖昧に微笑む大人たちから、答えはなかった。  目の前が真っ暗になる。沈んでいく。  まるで冷たい泥沼の底みたいだ。    ――俺がもっと、優しければ    ***    水面がキラキラ輝いている。仄暗い水の底から眺めていると、身体がゆっくり浮上していった。   「……あ、おはよー、雲雀」    お日様が微笑んでいる。    ――陽……。良かった、笑ってる。    柔らかな声に刺激されて、ふわふわしていた頭から靄が晴れていく。  優しい木漏れ日が眩しくて瞬きを繰り返し、ハッと起き上がった。   「あれ?! 俺寝てた?」 「うん、二十分くらい」 「うわ、ごめん! 足大丈夫?」 「平気だよー」    雲雀が労わるように陽の膝を撫でると、「くすぐったいよー」と陽がケラケラ笑う。その様子に雲雀はほっとした。        ――時を遡ること数十分前。  雲雀は会議室を抜け出していた。    ちゃんとした理由があった。  職員室に書類届けるとか、やけに静かだが視線が纏わりついて鬱陶しい睡蓮から離れたかったとか、各クラスと部活が申請通りに作業しているかどうかの確認とか。  ついでに園芸部の様子を見てみようなどと考えていたが、決して雲雀は嘘をついて抜け出したわけではない。    しかし、残念ながら園芸部の部室には誰もいなくて、悪いことはできないものなんだなぁ、と雲雀は肩を落とした。  花壇か庭園で作業しているのだろう。さすがに邪魔をするわけにはいかない、と諦めて踵を返した雲雀だった、が。   「あれー? 雲雀?」    のんびりした声に素早く反応し、顔を上げた。  陽が花の飾りを抱えて駆け寄ってくる姿に、雲雀の心は奈落から容易く舞い上がる。   「どうしたの?」 「鴨が葱を背負って」 「え? なに?」 「……いや、陽がお花を背負ってやってきたなぁって思って」 「……?」    陽が首を傾げて、大きな瞳をぱちぱちと瞬かせた。  それから、はっ! と目を大きく見開き、切なそうに眉を八の字に寄せた。   「雲雀……疲れてるんだね……?」    みるみるうちに、陽の瞳が潤んでいく。 「お花背負ってないのに背負って見えるなんて……」と陽は勘違いをしているようで、雲雀は少し困ったように陽を見つめた。   「……っ!」    その途端、雲雀は目を見開いた。  桃色の瞳が潤んでいく光景に、何故か心臓がぎゅっと締め付けられ、血の気が引いていく。どうしようもな不安が押し寄せてくる。    雲雀はそれを振り払うように、陽に笑顔を向けた。   「全然大丈夫だよ」 「じゃあ……眠いとか?」 「え?」    きょとん、と首を傾げる陽に、これ以上心配をかけないよう雲雀は「うん、まあ……」と曖昧に微笑んだ。   「そうだったんだ」 「うん、だから大丈夫。陽に会って元気出たし。……あ、そろそろ俺戻らないと」 「おねむの方はこちらにどうぞー」 「え、ええー?」    陽の暖かい手に導かれて、雲雀は庭園まで連れてこられた。鍵を開けた陽は、さらに「こちらでございまーす」と野原の方へと、雲雀の手を引いていく。    一番大きな樹の下に座った陽は、ぽんぽん、と膝を叩いた。   「さあ、どうぞ」 「え?!」 「遠慮せずに、さあこちらへ」    突然の膝枕イベント発生に、雲雀は狼狽えた。  もちろん、すぐにでも飛びつきたい。  眠いとか眠くないとかどうでもいい。  陽に触れていいならいくらでも触れていたい。俺専用の抱き枕になってほしいと常々考えているくらいだ。    しかし、陽の前では優しくてかっこいい完璧な自分でありたいというプライドが雲雀の理性を支えた。無防備な陽の太腿に、細い腰に飛びついて離れないなどという事態は回避できた。  雲雀は極めて冷静に、いかにも余裕綽々といった様子で、陽に微笑んだ。   「じゃあ……お言葉に甘えて」    十分でも寝転がれば陽も納得するだろう、と雲雀はそっと陽の膝へ頭を乗せた。    ――あれ、なんか思ってたよりやわらかい……。    頼りなさそうな膝が思いの外心地良い。  秋のそよ風が葉を揺らし、暖かそうな赤色の紅葉がひらひらと舞う。日差しも、陽の眼差しも、優しく降り注ぐ。    安堵と共に、瞼がまったりと閉じていった。    ――柔らかくて、あったかくて……お日様の……匂い……        そして、目覚めたのが今だった。    ――まさかマジで寝るとは……。    あまりの心地良さに、完全に眠ってしまっていた。  陽の穏やかな気配とお日様の匂いに包まれて、尋常じゃない安心感と寝心地だった。    ――そういえば、なんか夢見てたような……?   「いかがでしたでしょうか?」    目覚めとともに消え去った夢の断片を追いかけていた雲雀は、ハッとして顔を上げた。  陽がふふんっと誇らしげに、薄い胸を張っている。    自分では気付かなかったが、陽の言うとおり疲れていたのかもしれない。二十分程度の睡眠で清々しい気分になった。  そういえば、Ωの魅了(フェロモン)には、性的に興奮させるだけでなく、やすらぎを与えるものがあると聞いたことがある。陽にはその方が似合いそうだ。   「……またお願いします」 「うん! いいよー」    恥ずかしさもあるが、雲雀は素直に頭を下げた。陽は嬉しそうに笑って、両手を空へ、大きく広げる。   「園芸部の庭園は! 閉ざす門を、持ちませんので!」    ふふ、と思わず雲雀は吹き出した。気に入ってるのかなぁこのセリフと動き、と愛しさが溢れて、笑みも零れる。  にこにこと微笑む陽を見つめていると、心が解れていくようだ。表情も緩んで、肩の力が抜けていく。    ――……ああ。        可愛くて、白くて、暖かくて、柔らかい。  清らかで優しい。  まるで、陽だまりがこぼれ落ちて生まれたみたい。    ――陽。  ――……俺を、選んでくれないかなぁ。       「……冷えてきたな。そろそろ戻ろっか」 「うん!」    陽の手を引いて、庭園の出入り口へ繋がるトンネルへ向かう。  トンネルに入ってすぐ、雲雀の視界の端で、何かがキラリと光った。   「……?」    ――……ピアス?    雲雀は足を止めた。  長方形の枠の中、ステンドクラスのようになっている作りで、ピンク色の蓮が描かれている。  白銀の奥で煌めくこれを、幾度となく目にした。    ――……睡蓮?    ざぁっと風が吹いた。  秋の風に乗って、僅かに甘い香りが掠めていく。  その直後、ぐらりと視界が揺れた。   「……っ?」    それは一瞬で消え失せて、何も残っていない。  何もかもが掻き消えているというのに、胸がざわついて、落ち着かなかった。  雲雀は、じっとピアスを睨んだ。    ――……なんであいつ、ここに……?   「……雲雀?」    ハッとして顔を上げる。  陽が、控えめに腕を握って、心配そうに見上げていた。  雲雀は陽に見えないよう、ピアスを握り締めるとポケットに入れた。   「大丈夫?」 「……うん、大丈夫」    行こっか、と雲雀がいつもの優しい笑顔を見せると陽もほっとして笑った。トンネルを進む雲雀を追おうと一歩踏み出す。   「……陽」 「うん?」    数歩先に進んでいる雲雀が振り向いた。   「今日も迎えいくから、待っててくれる? 一緒に帰ろう」 「うん!」    雲雀の優しい笑顔に陽もにこっと笑顔で返す。   「それと」 「?」 「俺がいない時は、できれば誰かと一緒にいてほしいな。八千代とか、颯とか。ちょっと頼りないけど、茶々丸でもいいや」 「……?」    陽は不思議そうに首を傾げて雲雀を見つめる。  雲雀はいつもの優しい笑顔のままだ。それ以上を語らない。  陽はもう一度笑った。   「わかった!」 「……よかった」    雲雀がほっとしたような笑みを見せる。そしてまた、花のトンネルを進んでいった。    陽も遅れないように、その後に続こうとして、ふと気づく。    花が数本、折れていた。それが同じような場所に固まっている。誰かが摑んだのか、あるいは、ふらついてぶつかったのだろうか。    すると、風とともに花たちがざわざわと揺れた。   「……誰か来てた?」    さわさわと揺れる花は頷いているような気がした。   「……しばらくの間は門の鍵を開けておくね」    さわさわと揺れる花はうんうん、と頷いてくれる。  それを確認すると、陽は雲雀の背を追いかけた。

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