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18話-1 冷たく深い、汚泥の底で※
――数日前、
雲雀と陽が雨の中で再会を果たしたあの日、雨が降り始める気配もまだなかった頃に、睡蓮は高層マンションの前にいた。
目的は一つ、雲雀に会う為だ。
雲雀の住まいは、オートロックの出入り口に守られている。しばらくの間、鋭い眼差しで睨みつけていたが、目を閉じて緊張を解くように息を吐く。再び目を開けた睡蓮は、意を決し、エントランスの中へと足を踏み入れた。
大理石の床と壁はつやつやと輝き、開かれた広い空間は訪問者を受け入れているように見える。
しかし、その一角には管理室があり、そこには2名の警備員が待機していた。彼らは見慣れぬ少年――それも、一度見たら忘れるはずもない美しい少年が入ってきたことで、目を見開き呆けたような表情になった。
しかし、それも僅かな時間のことで、すぐに我に返った彼らは、むやみに視線を向け続けることはしなかった。
睡蓮は操作盤の前に立つと、僅かに震える指先で、部屋番号を入力していく。
一つ、一つ、押す度に、心臓の鼓動は早まっていく。
最後に『呼出』のボタンを押すと、数回のコール音の後に、ぷつり、と音が止む。途切れたのではなく、相手が応答したからだ。
相手は睡蓮の姿が見えているが、睡蓮には無言だけだ。
心臓の高鳴りと共に、ぎゅっと喉が締まる。
「……ひばり?」
無理矢理こじ開けた喉から絞り出した声は、情けなくなるくらい小さく、微かに震えていた。
それでも、反応を待つ。
『……兄は留守です。お引取りください』
しばらくの沈黙後、静かに、それでいて強い意思を滲ませて、相手が答えた。
――……菖蒲堂颯、か。
強張っていた身体は解け、同時に、内心で舌打ちをする。
雲雀の弟の存在は知っていた。関わった機会は数えるほどしかない。雲雀が近づくことを許さなかったのもあるが、睡蓮自身、αでもΩでもない彼に興味はなかった。
しかし、今は雲雀に会うための障害でしかない。
苛立ちと怒りを押し隠して、睡蓮はもう一度口を開いた。
「雲雀はどこへ?」
「……お引き取りを」
先ほどよりも強い口調の言葉と共に、ブツン、と音声が切れた。
明確な拒絶に、睡蓮が奥歯を噛みしめ、拳を強く握る。
けれど、いつまでその場から動かない睡蓮を、管理室から警備員がじっと見ていることに気付いて、何事もなかったかのように踵を返した。
その眼差しは鋭く、そして、揺らいでいた。
***
睡蓮はエントランスを出て、振り返る。
雲雀の存在を少しでも確認したくて、じっと睨みつける。けれど、それらしきものは何も感じられなかった。
――……あの様子では、ここには戻らないかもしれない。
菖蒲堂颯は雲雀の意思に反することはしないだろう。強い拒絶の姿勢は、雲雀がそれを望んでいるからだということは、嫌でも分かる。
そして、睡蓮が訪ねたことを、颯は雲雀に報告するに違いない。
ここにいても、彼には会えない。
その事実が、睡蓮の心の奥に、ずしりと重く沈み込む。
エントランスを出ていく時の、迷いのない歩みが嘘のように、ふらり、とよろめいた。行く当てを見失って、街を彷徨うように歩き出した。
沈んでいく思考が、寄り添い合う二人の姿を脳裏に浮かび上がらせる。
『陽くんはいずれ、選ばれるでしょう。お前がご執心の最上のα に』
『お前がいくら見目麗しく、狡猾で、淫靡でも……あの子には到底及ばない』
「……っ…」
君影ルイの言葉が睡蓮を蝕んでいた。それが真実のように思えた。だからせめて、二人きりにさせてたまるかと、何度も何度も引き裂いた。
自分が近づけば、雲雀は陽から離れる。
それでよかった。雲雀が陽の隣にいないという事実だけが、どうしようもない焦燥感を打ち消してくれた。
隣にいる最上のαの横顔を見つめて、睡蓮は優越感で満たされた。
……例えそれが、陽の身を守るためだと解っていても。
桃ノ木陽が数日前から学校を休んでいることを睡蓮は知っていた。おそらく、発情期だろう、ということも察しがついている。
――……もしかして二人は今、一緒に……?
睡蓮の記憶の中の、仲睦まじい二人の映像が、突然歪み、激しく求め、重なり合う二人へと変わっていく。二人の幻像が脳裏を焼き焦がした。
「……ッ、うっ、あッ……!」
ずぐん、と胎の奥が疼き、睡蓮はよろめく。
咄嗟に口を押えたが、数名が振り返り、じっと見ていた。それを睨み返せば、彼らは慌てて目を逸らして足早に去っていく。
腰は震え、熱が溢れる感覚に思わず声が漏れそうになる。それでも、衆人環視の街中で無様に倒れることを睡蓮の誇りが許さなかった。
壁を支えに、建物の隙間、路地の奥へと何とか逃れる。
路地裏はごみバケツから異臭が漂い、缶や瓶が転がっていた。排気ダクトからは古い油の匂いが噴出している。
睡蓮は顔を顰めたが、場所を選んでいるだけの余裕はなかった。壁を背にして崩れ落ちるように、座り込んだ。
「はッ、はぁっ……アァッ……」
通りから見えないように、物陰に身を潜める。生ゴミの汁や酒のような液体で汚れている地面に座り込むなど、あってはならないことだ。
顔を顰めるような匂いが鼻を突き、吐き気がこみ上げる。
そんな場所で、発作が落ち着くのを、ただひたすら息を殺して待つしかできないことが屈辱で、身体が震えた。
「んッ、ァアッ……!」
その間も、雲雀と陽の幻像が繰り返される。何度も何度も、繰り返し、深く重なり、求め合う姿に、腹の奥から熱が溢れ出す。
熱に浮かされて、それの接近に気付かなかった。
「あれぇ? どうしたのー?」
神経を逆撫でするような、ねっとりとした声に、睡蓮は顔を上げた。見慣れた制服が数名、通りから路地裏を覗き込んでいる。声をかけたであろう男の顔は見覚えがあった。
「すげえいい匂いさせてんなぁ? 大丈夫?」
「……っ!」
他人に見られたショックで、呆然としていたが、すぐに睡蓮は男を強く睨みつける。
その男はニヤニヤと笑みを浮かべて近づいてくるが、他の取り巻きは奥までは入って来ない。ただ、頬を染め、少し息を乱し、睡蓮を覗き見ている。「マジかよ」「やべぇ、すげぇ」と興奮混じりの声が時折聞こえて、睡蓮は不快そうに眉を寄せた。
立ち上がろうとするが、壁にしがみつくのが精一杯で、立ち去ることまではできなかった。
拒絶を言葉にする代わりに、許可なく近付く男を睨む。いつもならばそれで相手は消えていくのに、今はさらに楽しそうに笑って、無遠慮に覗き込んできた。
「今日は〝お兄ちゃん〟といっしょじゃねぇのか?」
――……お兄ちゃん……?
「……何の話だ……」
「こんだけ発情してるってことは溜まってんだろ? いつもは睡蓮が邪魔してくるけど、たまには相手してやろうか?」
男は、笑みを浮かべると、αの象徴たる牙を見せつけた。
「なあ、〝芙蓉〟ちゃん?」
「……――ッ?! ちがっ……僕は……! ……ッ」
男が伸ばした手を払い除けて、思わず叫んだ。けれどその先は続けられなかった。
もし、弟でないと分かれば、ここにいる自分が睡蓮だと知られる。αであるはずの睡蓮が、男を誑かすような香りを――〝魅了 〟を纏っていたことが知られてしまう。それは避けたかった。
けれど、燻る情欲で正常な働きを失った脳では、何も考えられず、動けなかった。
「……っあぁ!」
思考が散り散りに溶けていく中、手首を掴まれた痛みで睡蓮は我に返った。いつもならば、その細い腕からは想像し難い力で振り払い、無礼者を薙ぎ倒すはずだが、今は見た通りの、細く白い、硝子細工のようなか弱い腕でしかなかった。
「何が違うんだ? 照れんなよ」
男は睡蓮を引き寄せて、その白い首筋に鼻を近づけた。息を深く吸い込み、甘く、痺れるような香りを堪能して、満足そうに息を吐いた。
熱くて、じっとりと湿っぽく、獣臭ささえ感じるような吐息が耳にかかって、睡蓮は身体を震わせる。
気色悪くて吐き気がするのに、刺激を受けた身体が、淫らな反応をしてしまう。声を漏らすことだけは耐えたが、息を乱し、目元を艷やかに紅く染め、見上げる瞳はたっぷりと潤んでいる。
その反応と、上質な魅了 にあてられて、男は容易く「誘っているに違いない」と確信した。
乱暴に掴んだ腕を引き寄せて、路地裏から仲間たち待つ通りへと引きずり出そうと、睡蓮の細い腰を抱き寄せた。
「んあっ……! やっ…っ!」
舐るような手付きに、ビリビリと腰から全身に刺激が走る。睡蓮の華奢な身体が痙攣したように震え、崩れ落ちそうになるのを男が支えて、ニヤリと嗤う。
「焦んなって、まだ早ぇよ」
「っ……やっ……」
「ちゃんと、可愛がってやるからさ」
〝俺たちが〟と。
身を捩る睡蓮の行動をどう解釈したのか、男は荒く乱れ始めた欲情を隠すことなく、牙を剥き出しにして耳元に囁く。
ハッとして、睡蓮は顔を上げた。
今まで、αであろう男に任せて、近づいてこなかった彼らもまた、男と同じように、ギラギラと目の色を変えて睡蓮を見つめていた。
睡蓮と目が合うと、はっとして息を呑み、それから、ごくりと喉を鳴らす。睡蓮に引き寄せられるように、ふらふらと近づいてきた。夢見るようなぼんやりとした表情と欲望に乗っ取られたような虚ろな瞳に、ぞくりと悪寒が走る。
咄嗟に、男を突き飛ばすと、睡蓮は走り出した。
「って……!! てめぇ!!」
抵抗されるとは思っていなかったのだろう。路地裏の酒やゴミの混じった汚泥まみれの地面に転がされ、男は衝動のままに怒鳴り、腕を伸ばした。
睡蓮の服の裾は指先を掠めて、離れていく。
男の声に我に返った仲間たちは、一瞬自分たちがどこにいるのかも分からず、お互いに顔を見合わせていた。その一瞬の隙が、睡蓮にとっては幸運だった。
行く手を阻むように立ち尽くす彼らを押し退け、睡蓮は通りを駆け抜けていく。通行人にぶつかって、よろけても振り返らない。
逃げ出すことしかできない自分が許せなくて、視界が滲む。
冷たい雨が頬を、髪を、火照った忌まわしい身体を濡らしても、睡蓮はただ走った。
***
「……! 睡蓮様! なんと……」
「いい、騒ぐな」
「……」
屋敷に辿り着く頃には、睡蓮の身体は冷たく凍えていた。慌ててタオルを差し出す使用人を鋭い眼差しと言葉で、黙らせる。
「誰も入れるな」とだけ伝えて、睡蓮は一人自室に戻った。
「兄さん……?」
睡蓮がハッとして目を向けた。廊下の向こう側で、芙蓉が自分を見つめていていた。声が小さく震えている。心配そうに揺れる眼差しに、胸の奥が痛んだ。
「……っく……」
けれど、僅かに気が緩むだけで崩れ落ちてしまいそうで、睡蓮は視線を反らし、扉を閉めた。
扉に背を預けて、そのままずりずりと座り込む。
冷え切った身体の奥で、燻っている熱を感じた。
寒くて凍えそうで、自分自身をぎゅっと抱きしめる。
それでも、頭から離れない。
重なり合う二人。求め合い、結ばれる最上のαとΩの姿。
あの男の鋭く冷たいはずの青灰の眼差しが、ゆっくりと細められる。
柔らかな表情が、声が、眼差しが、愛おしくて愛おしくてたまらないのだと物語っている。
……もし、その表情が向けられているのが、
その声で、その眼差しで、その指で触れているのが、
『――睡蓮』
「――ッ……!」
優しい幻像に、こみ上げる感情の名前を睡蓮は知らない。知りたくない、と首を振った。
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