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18話-2 冷たく深い、汚泥の底で
「兄さん……」
「……! 芙蓉ッ……?」
震える弟の声に、睡蓮は顔を上げた。
一晩経って朝を迎えても、熱はぐずぐずと睡蓮の奥に留まっていた。
身体は熱く、衣服が擦れる刺激だけで震え、吐息が零れる。
それでも、芙蓉が不安そうに立ち尽くす姿に気付いて、睡蓮はベッドから降りた。サイドテーブルに手を付き、膝から崩れ落ちそうな身体を支える。これ以上、無様な姿は見せられない、と背筋を伸ばし、顔を上げた。
けれど、芙蓉の瞳は心配そうに潤み、揺れている。
「兄さん大丈夫……? お医者様を呼んだ方が……」
「大丈夫だ。お前は先に支度していろ。すぐにいく」
「でも……」
芙蓉はぎゅっと耐えるように眉を寄せて、俯いた。
今にも不安で砕け散ってしまいそうな、優しくて可愛い弟。僕が支えてやらなければならないのに。
駆け寄ることすらできないことが、この身体が、疎ましい、忌々しい、と睡蓮は拳を握り締めた。
「……芙蓉」
わざとらしいほど甘く、囁くような声に、びくり、と芙蓉の肩が震えた。
君影ルイが現れて、柔らかな笑みを芙蓉に向ける。
彼の長い影が、廊下の光を浴びて、無遠慮に部屋へ侵入してくる。するり、と入り込む様は、まるで黒い蛇のようだ。
「どうしました? 車の準備はできていますよ」
「ルイさん……! あの、兄さんが……」
君影ルイの視線から睡蓮を庇うように、芙蓉が前に立つ。
ゆったりと微笑んで見せる君影ルイの薄気味悪い眼差しが気に入らなくて、睡蓮は強く睨み返した。身体が強張り、影は重く纏わりつくようだ。
「……まったく、夕食の時間も、朝食の時間も守らず、まだそんな姿なんて。だらしのない子だね」
呆れたような笑みを浮かべているが、紫色の瞳は酷く冷たく、暗い。君影ルイの神々しいほどの美しい容貌に嘲笑が滲み、睡蓮を苛立たせる。
「お前はもう行きなさい」
「で、でも……っ」
芙蓉の肩を抱き、君影ルイが部屋から連れ出す。容易く触れるな、と突き飛ばしてやりたいところだが、この場から弟を逃したいという一心で、睡蓮は芙蓉の背中を見送った、が。
芙蓉は君影ルイから逃れ、真正面に向き直った。
「……僕も兄さんとっ……」
芙蓉が強い眼差しで、顔を上げ、君影ルイを見つめる。芙蓉が君影ルイに立ち向かおうとするなんて、初めてのことだ。睡蓮は思わず目を見開いて彼らを見つめる。、
けれど芙蓉は、君影ルイの感情を消し去ったような美しい容貌と冷たい眼差しを見た瞬間、びくり、と身体を震わせた。瞳の輝きは、砕け散って消えていく。
「……学校に遅れないように、ね」
俯き、震える芙蓉に、君影ルイは、優しく、美しく、微笑んで見せた。
「……はい……」
芙蓉は俯いたまま、小さく頷く。
怯えたように小さくなった背中が痛々しく、睡蓮は爪が食い込むほど強く拳を握る。しかし、これ以上心配をかけるのも耐え難かった。自分はともかく、芙蓉が君影ルイの不興を買うのは避けたい。引き止めることはできない。
君影ルイは満足そうに微笑むと、芙蓉の背中を撫でて、身を屈めて囁いた。いい子だ、と甘く優しく囁いた。
「……私は睡蓮と話があるから」
気を付けてね、と続けながら、君影ルイの眼差しは睡蓮を捉えた。
***
「あぁ、あぁ。カーテンも開けないで」
君影ルイは無遠慮に部屋に入ってくると、睡蓮の横を通り過ぎる。
部屋の奥の窓を開け放てば、カーテンが翻り、朝の明るい陽射しが部屋を照らし出した。
睡蓮は何も答えない。振り向き、君影ルイを睨むが、眩しさに少し顔を顰めた。
「……すぐに準備します。用がないなら、」
「雲雀くんと陽くん」
ぎくりと、睡蓮の肩が震えた。
君影ルイは朝の日差しを背に、窓枠に手を添え軽く腰掛ける。白銀の長い髪がレースのカーテンと共に靡いて、君影ルイの姿が見え隠れを繰り返した。垣間見える表情は、目を細めて、ゆったりと微笑んでいる。
「あの子達、最近親密度が増したと思いません? 何かあったのかなぁ?」
「……っ」
君影ルイの楽しそうに弾んだ声に対して、睡蓮はぎゅっと拳を握り締めて震えた。
「特に、そう、雲雀くんの、陽くんへの熱い眼差しは、見ていてこちらが恥ずかしくなるくらい。
……あの子もなかなか難儀な子でしたが、ようやくたったひとりの運命を見つけたようだ。
凛々しく強いαと、愛らしく尊いΩ。……実にお似合いじゃないですか」
「……――ッ!! ……っ…ぁっ…っ!」
睡蓮は崩れ落ちるように膝をついた。胸を抑えて、先程と同じように、苦しそうに息を乱している。
君影ルイは窓から離れると、睡蓮に近づいていく。近づきながら、ゆったりと語りかける。
「……雲雀くんのあんなに柔らかな表情をお前は知らなかったでしょう? ずっと一緒にいたのにねぇ。……いや、執拗に付き纏っていた、の間違いか」
「……っ」
息を乱し、身体が震わせながら、睡蓮は君影ルイを見上げて睨んだ。けれど、鋭く射抜くはずに瞳は切なげに潤んでいる。
君影ルイがその名を口にする度に、〝発作〟が起きて、溢れてくる。
睡蓮の前に立ち、君影ルイは優雅に首を傾げ、その長身をゆっくりと屈める。白銀の長い髪が、凍りつく滝のように睡蓮に降り注いだ。
「陽くんは今はまだ、発情期 を薬に頼らざるを得ない未熟な子ですが、Ωとして、正しく目覚めるのも時間の問題。最上のαに選ばれ、愛されたなら、それはそれは美しい花を咲かせることでしょう。
……それに引き換え……」
「――っ!」
君影ルイが睡蓮の顎を強く掴み、上を向かせる。
「あれだけΩを毛嫌いしておいて、今のお前はなんだ? 一人で乱れ、身体を火照らせ、”魅了 ”を垂れ流して……はしたない」
君影ルイには似つかわしくない乱暴な手つきに、食い込む鋭い爪に、睡蓮の表情が歪む。君影ルイのいつもの柔和な笑みは、獰猛さを滲ませた嘲笑に変わっていた。
「こうやって淫らな色香でαを惑わす存在 を嫌っていたんでしょう? 雲雀くんを取られたくなくて。なのに、なんて惨めな……。
……ああ、それとも、未熟なあの子になら、出来損ないのお前でも勝てるとでも?」
「…っ! ちがっ……!」
「何が違う? お前の浅ましい身体は、最上のαを手に入れる為に、今まで蔑み、虐げてきた性に成り下がろうとこんなにも必死なのに」
「……っ!!」
乱れる呼吸に、暴れる本能に、目の前の”敵”に、抗うように、睡蓮は牙を剥く。けれど、君影ルイの眼差しは少しも揺れることはなく、ただただその美しく妖しい笑みを深めただけだった。
「お前の肥大したプライドが許すのならそれでも構わないが、お前の周りの人間がそれを許すかな」
睡蓮が眉を寄せて、奥歯を噛みしめる。君影ルイは睡蓮の繊細な美貌が歪むのを楽しげに眺めていたが、一瞬にして笑みを消し去って、睡蓮を乱暴に放る。立ち上がって、冷たく見下ろした。
「さっさと鎮めて身なりを整えなさい。αとしてありたいなら、これ以上無様な姿を見せるな」
君影ルイが立ち去った後、睡蓮は奥歯を噛み締め、拳を強く握る。
「クソッ……!!」
床に叩き付けた拳は、屈辱に震えていた。
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