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19話-1 呪い
「……兄さん、大丈夫?」
ノックをして、そっと扉を開ける。暗い部屋の奥、ベッドの上で睡蓮兄さんが呼吸を荒くして、蹲っていた。
白い肌は淡く色づき、いつも凛々しく鋭い眼差しは潤んで虚ろだ。汗ばむ肌や喘ぐ呼吸音さえも、匂い立つような色香となって部屋中を侵す。
「兄さん……」
「……! 芙蓉ッ……?」
ノックにも、僕が入ってきたことにも、気づいていなかったのだろう。兄はハッと顔を上げると、何事もなかったように立ち上がった。
……けれど、足元がおぼつかず、ベッドのサイドテーブルを支えにしているのが分かった。いつも凛々しく強い兄さんが、今は脆く儚く見える。
駆け寄って、支えてあげるべきなのに、足が震えて一歩も踏み出せなかった。
「兄さん大丈夫……? お医者様を呼んだ方が……」
「大丈夫だ。お前は先に支度していろ。すぐにいく」
「でも……」
「……芙蓉」
優しく僕を呼ぶ声に、びくり、と肩が震えた。
暗い部屋には、僕の影だけが伸びていたはずなのに、より長い影が重なって、塗り潰されてしまう。振り返ると、ルイさんが柔らかな笑みを浮かべて立っていた。
「どうしました? 車の準備はできていますよ」
「ルイさん……! あの、兄さんが……」
ルイさんの視線が僕から兄へと移る。兄さんは、視線を受けて、強く睨み返した。その身体が強張ったように見えるのは、僕の気のせいじゃない。
空気が張り詰めて、二人の視線の摩擦で、軋んでいるようだった。
「……まったく、夕食の時間も、朝食の時間も守らず、まだそんな姿なんて。だらしのない子だね」
ルイさんは呆れたような笑みを浮かべたけれど、紫色の瞳は酷く冷たく、暗い。
けれど、その視線が僕に向いた時、ルイさんは目を細め、笑みを浮かべていた。
「お前はもう行きなさい」
「で、でも……っ」
肩を抱かれて、部屋から連れ出される。僕は兄さんが心配で、思わずその手から逃れてしまった。
「……僕も兄さんとっ……」
意を決して、ルイさんの目の前に立ち、顔を上げる。
心を決めたはずなのに、感情を消し去ったような美しい容貌と冷たい眼差しを見た瞬間、すべて砕かれて散ってしまった。
「……学校に遅れないように、ね」
それ以上の言葉を紡げずにいると、ルイさんはまた、優しく、美しく、微笑んで見せた。
砕け散った心を立て直すこともできず、ただただ、宝石のような美しい瞳に吞まれていく。塗り潰されて、僕の意思は消えていく。
「……はい……」
俯いて、小さく頷くことしかできない僕の頭を、ルイさんの大きくて冷たい手が、優しく撫でる。宥めるように大きな手で僕の背中を撫でて、身を屈めて囁いた。
「いい子だ。……私は睡蓮と話があるから」
気を付けてね、と、優しい声が鼓膜を震わせ、僕は頷いた。
ルイさんは兄の部屋に戻っていく。
僕はそのまま、廊下を歩いて、階段を下りて、屋敷の前で待っている車に乗れば、口数の極端に少ない運転手が学園まで送ってくれる。
僕がいても兄さんの役には立たない。僕は何もできない。居ても、兄さんの力になれない。
……それでいいの?
――……良くない。けど……
……僕の心は弱くて、ルイさんの言いつけに背いて、その場に留まることができなかった。
***
「芙蓉くん、大丈夫?」
「え……?」
顔を上げると、大きな桃色の瞳が僕を見つめていた。
園芸部の部室で、久しぶりに陽くんと一緒にお昼を過ごせるというのに、先週の出来事のことばかり考えてしまうなんて。
「最近元気ないねぇ、大丈夫?」
まるで頭の中まで覗き込むような純粋な瞳に、ドキッとした。慌てて笑顔で取り繕う。
「大丈夫だよ。ごめんね、ちょっとボーッとしちゃって」
「元気が出るように、飴をあげましょう」
「あ、ありがとう」
陽くんは僕の両手いっぱいの飴をくれた。
いつもどこから出てくるんだろう?
……どうしていつも、落ち込んでいるとバレてしまうんだろう?
まことしやかに「陽くんって心読めるんじゃない?」って囁かれてるけど、陽くんなら納得できる。そういう不思議な魅力が陽くんにはあった。
沈んでいきそう心を、拾い上げて、暖かく柔らかく包んでくれる。
……でも、今回は陽くんには話せない。
僕の兄、睡蓮兄さんのことだから。
……僕は睡蓮兄さんが、陽くんに何をしたか知ってる。
陽くんだけじゃない。他のΩたちにしてきたことも。
そのことがずっと、申し訳なくて、他の子達とまともに話すこともできなくなっていた。
そんな僕の日常を、変えてくれたのは、陽くんだった。
陽くんはある日突然現れて、僕が描いた絵を褒めてくれて、夢に描いていただけの世界を、あっという間に作り上げてしまった。
美しくなった庭園の手入れは大変だけど、すごく楽しくて、嬉しかった。おかげで、園芸部の皆や他の子達とも、仲良くなれた。兄さんがしてきたことへの罪悪感や負い目は拭えないけど、僕を僕として受け入れてくれた皆に感謝したい。
陽くんは暖かくて柔らかい、お日様みたい子。
僕の初めての友達。
その友達は最近、学園中の注目を集めている。学園の人気者、雲雀くんとの関係を噂されていた。
雲雀くんのことは僕もよく知っている。
中等部の頃から兄さんとよく一緒にいるかっこいい人。頭も良くて優しくて皆の憧れだ。
雲雀くんは兄さんとは仲が良くないみたいだけど、僕にも優しかった。怖いことなんてされたことはない。むしろ、怖い目にあいそうな時には守ってくれた。
優しくて、正しくて、強い人なんだと思う。
……だけど、正直言うと、僕は雲雀くんが少しだけ怖かった。
優しくて美しい眼差しが時々、すっと冷たく、遠くを見つめる。
誰も受け入れない固く閉ざされた扉の奥へ、沈み込むような空気を纏う。
今にも遠くへ消えていきそうな、砕けそうな儚さ。
……それが、少しだけ、兄さんに似ていた。
でも、陽くんと一緒にはいるようになってからは怖くなくなった。
空気が和らいで、優しい眼差しや微笑み、声さえも穏やかだ。
その全部は陽くんに向けられているのに、僕まで思わずドキッとしてしまう。
……もしかしたら、これが本来の彼なのかもしれない。
陽くんの隣でなら、安心して心を開ける。ありのまま受け入れてもらえるという信頼。僕もその気持ちが分かる。
αにとっても、Ωにとっても、何も奪われないでいられる場所は少ないから。
――……兄さん。
兄さんも、ここに来てほしいのに。
最近あまり、話もしていない。
様子がおかしくなったのは、先週末頃だったと思う。雨に濡れて帰って来た兄さんは、そのまま部屋に閉じこもってしまった。一度部屋まで様子を見に行ったけど、結局あの日は、夕食になっても部屋から出てこなかった。翌朝、僕が呼びに行くまでずっと、部屋から出てこなかった。
……それから一週間、僕の前ではあまり見せないけど〝薬〟の量も、回数も、増えている気がする。
――結局、ルイさんと兄さんが何を話していたのか聞けなかった。
ルイさんに『行きなさい』と命じられた僕は、どうしても兄さんが心配で、運転手さんに頼み込んで待ってもらった。運転手さんは、何も言わずに待ってくれた。僕にできるのはそれくらいだった。
けれど、戻ってきた兄さんはいつもの兄さんだった。
お前まで遅れたらあの男がうるさいぞ、と憎まれ口を叩く兄さんは、いつもの強い兄さんのように見えた。
『……お前は、何も心配しなくていいんだ』
そう言って、僕にしか見せない優しい顔で笑ってくれるから、僕はまた何も言えなくなってしまった。
睡蓮兄さんと僕はたった二人だけの家族だった。
睡蓮兄さん。
僕の双子の兄。
誰よりも美しくて強い、僕の誇り。
貧しく辛い暮らしの中、僕らは二人で寄り添い生きてきた。
僕は泣いてばかりだったけど、兄さんが泣いてるところを、僕は見たことがない。この学園の理事長でもある君影ルイさんに引き取られてからもそうだった。
大きなお屋敷に暖かいご飯、綺麗な洋服に十分過ぎる教育。
あの人は、何も持たない僕らに、何もかも与えてくれた。
『貴方は何もできなくていいし、何も考えなくていいんですよ。ただ、愛らしく美しくあればいい。愛でられる為だけに、在ればいい』
僕らを引き取った時、ルイさんはそう言ってくれた。
優しく、美しく、微笑むルイさんの言葉は、新しい環境に怯える僕を癒し、安心させてくれた。
だけど、少しずつ兄さんは変わっていってしまった。
氷の矢のように鋭く冷たく、毒のように心を蝕む言葉、他人を威圧する眼差し。
皆に恐れられ、それでいて惹きつけてやまない、暴君のような人へ。
……僕の知らないところで兄さんがたくさん傷ついていることを知っていた。
僕には優しいルイさんは、兄さんにはどこか冷たかった。昔は何もわからなくて、どうして兄さんはいつも怒っているんだろう? 何が嫌なんだろう? と考えていた。
……それが、少しずつ 少しずつ、僕にも、わかるようになってしまったのはいつからだろう。
ルイさんが、そして兄さんが、僕にだけ優しくても、僕はもう、嬉しくない。
兄さんがこれ以上傷つかないようにと、誰にも言えない〝秘密〟を抱えて、頑なに心を閉ざし、尖り続けていくのに、僕には何もできなかった。
兄さんは幼い頃から変わらずずっと、僕を守り続けてくれているのに、僕には何もできない。
……それでいいの?
――……良くない……けど、どうしていいか、わからないんだ。
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