29 / 46

20話-1 運命の花

 ひらり、ひらり。  紅の葉が一枚、また一枚と、舞い落ちる。  少しずつ降り積もり、紅が鮮やかな絨毯のようだ。  燃えるような紅い色は、鮮烈でいて、暖かい。    暗く凍える心を照らし出すかのように。        カツン、と門に足が当たって、睡蓮はハッと、顔を上げた。  庭園の門の前、園内の鮮やかな紅を前にして目を見開く。何故、と呆然としてその光景を見つめる。  いつからこの場にいたのかもわからない。  秋の日は短く、すでに薄暗い空にうっすら夕暮れの名残りが漂っている。      『邪魔は、するな』    何度も反芻される。最上のαの宣戦布告。  鋭く研ぎ澄まされた青灰色の眼差しは、確かに自分を射抜いているというのに、その瞳が向けられているのは――。      薬で無理矢理抑え込んだだけの熱は、睡蓮の身体を蝕むのを今か今かと待っている。夜を迎える度に溢れそうになる想いを睡蓮は何度も打ち消そうとした。  それでも最上のαの姿が消えず、発作が起き始めたあの日からまともに眠れていない。    終わりの見えない日々に、睡蓮は疲れきっていた。会議室で作業していたはずの雲雀がいなくなったことに気付いたのは、しばらくしてからだった。  あのΩのもとにいるのだろうか、と考えるだけで腹の奥が切なく疼く。胸は軋むほど締め付けられた。  雲雀がいる場所は解るのに、追う気にはなれなかった。けれど、雲雀がいないなら、この場にいる意味はない。  睡蓮もまた、静かに会議室を抜け出した。ままならない身体を持て余し、独りの場所を求めて校内を彷徨っていた。……はずだった。    気付けばまたここに――庭園の前に来ていた。最上のαとΩ、二人が寄り添い合う花園に。    憎くて悔しくて惨めでしかないのに、嫌っていたはずに花や色鮮やかな紅葉を眺めていると、暴れ狂っていた身体も、熱く乱れていた呼吸も、ゆったりと揺蕩うように穏やかになっていた。    これでは、まるで――   「……違う……っ」    誰かに訴えるかのように、睡蓮が門に手をかけた。  ガシャン、と鍵が引っ掛かる音が響いて、睡蓮はまたハッとして顔を上げた。  門の鍵は、閉ざされていた。  閉園の時間はとっくに過ぎて、校内に残っている生徒も数少ない。開くはずはない。    ――僕は何を……。    未練がましく、門に縋り付く自分の手は白く、脆く、あまりにも惨めだった。  睡蓮は呆然として、俯くと、その場を動けなかった。     「みんなぁお疲れさまぁー」    静かに沈みゆく静寂に、のびやかな声が響いた。睡蓮はゆっくりと顔をあげた。  中央庭園近くの小屋は、園芸部の部室だ。数名の生徒が集まっていて、その中心には陽がいた。   「陽くん、一人で大丈夫っすかぁ?」 「兄さん来るまで俺も残りましょうか……?」 「ありがとー」    でも大丈夫だよぉ、とのんびりとした声で答えて、にっこりと微笑む。  陽は小さな指先を袖口からほんの少し覗かせて、「気をつけてね」とひらひらと揺らした。  その後も少しの間、彼らは陽の周りから離れなかったが、陽がテコでも動かないことを察すると名残り惜しそうに帰っていく。    全員の背中を見送ると、陽は小さな台車に道具を載せて、ころころと運び始めた。行く先には、園芸関係の倉庫がある。  睡蓮が目で追っていると、陽が立ち止まった。  陽は両手を広げて、まじまじとカーディガンを見つめている。よく見れば、袖も裾もかなりゆとりがある。肩もずるりとズレてしまう。  陽の華奢な身丈に合わない淡いクリーム色のカーディガンは、見覚えがあった。    ――あれは……確か……    深く沈んで動けなくなっていたはずの思考が、身体が、湧き上がる感情に突き動かされる。静かに全身を巡っていく。心臓の音が、迫ってくる。    陽が両方の袖口を顔に近付けて、目を瞑った。すぅ、と緩やかに、深く呼吸を繰り返している。  そして、ゆっくり目をあけると、一人静かに、幸せそうに、微笑んだ。  細められた桃色はしっとりと潤み、目元は淡く染まっている。  それで満足したのか、陽は台車の取手を掴むと、鼻歌混じりの軽やかな足取りで倉庫へと向かった。    睡蓮は、暗く冷たい眼差しでそれを眺めている。    ――やはりあれは、雲雀の……    暗く沈んだ眼差しの奥に、青白い炎が宿る。  瞳に僅かな光を取り戻して、睡蓮は静かに、速やかに、陽の後を追った。    ***    倉庫の中で作業をしていた陽は、古いドアノブが回る鈍い音に気付いて、ぱぁっと表情を明るくする。待ち望んだ相手の到着にぴょんっと飛び上がるように振り向いた。   「ひばりっ……」    弾んだ声は、ぷつり、と途切れてしまった。  扉から現れたのは、予想と違う人物で、陽は大きな目を丸くして、パチパチと瞬きを繰り返した。   「……睡蓮くん?」 「……あいつじゃなくて残念だったな」    睡蓮は苦しげに眉を寄せて、それでも強気な笑みを崩さなかった。ドア口の枠に凭れかかって、腕を組んでいるが、どことなく気怠そうに見えた。    ――……こんな感じだったっけ?    彼と面と向かって話すのは、春の食堂以来だろうか。  その後は雲雀や他の誰かが間に入っていたから、こうして睡蓮をまともに見たのは久しぶりだ。  初対面で見せつけられた、剥き出しの悪意と敵意。毒と棘を隠そうともせずに、美しく艶やかに咲き誇る花みたいだと思った。  それは、小さい頃から知っている人によく似ていた。   『〝君影〟睡蓮だ。よろしく』    名を聞いて、納得した。そういえばあの人は、――君影ルイは、毒と棘のある美しい花が好きだったなぁと思い出した。    彼の蒼い眼差しは、誇り高く美しく、鋭く、冷たかった。  そして、澄みきっていた。  あの人の暗く澱んだ“それ“よりも、ずっと。  だから、受けて立とうと、思った。    なのに、今の彼は、全身から青白い火花を散らせていた。固く閉ざされ、汚泥に沈もうとも、誇りを、美しさを、決して失わない花のよう。    揺れる蒼い眼差しが、ひた隠しにする儚さが、陽に一つだけ思い出させた。昨日、庭園でへし折れていた花のことを。  誰かが、花にさえ縋りついて、崩れ落ちそうだった証を。    ――あの時、あそこにいたのは……       「……どうして」 「Ωで良かったな」    陽の言葉を遮って、睡蓮が微笑む。陽は首を傾げた。   「発情期(ヒート)を薬に頼らなければならず、魅了(フェロモン)もまともに出せないそうじゃないか」    陽は僅かに目を丸くして、不思議そうに睡蓮を見つめ返した。  家族や雲雀、親しい人しか知らないことだ。陽にとっては知られて困るようなことではないが、どうして彼が知っているのか不思議だった。   「お前のような出来損ないでも、Ω性を持って生まれただけで容易くαを落とせる。良かったな。どんな気分なんだ?」 「……? ……どんな……って……?」    何の話をしているのかわからない、と首を傾げる陽を、睡蓮が強く睨んだ。   「……誰にでも優しいくせに誰のものにもならなかった男が、今じゃ他には目もくれない。お前の虜だ。お前だけのαだ。誰もが望む最上の(α)を手に入れて、見せつけて、さぞいい気分だろう?」    挑発的な笑みは、僅かに歪み、苛立ちを滲ませていた。しかし、陽は睡蓮を見つめたままで、答えはなかった。目を丸くして、ぽかんと口を半開きにしている。  睡蓮は訝しげに眉を寄せたが、陽はそれにすら気付いていないようだった。   「……最上の(α)……? ……もしかして、雲雀のこと?」    陽はゆっくりと確かめるように、言葉を紡ぐ。   「……雲雀が、……おれ、を……?」    これまで、愛され、大事にされることが当たり前のような顔で微笑んでいた男が、『そんなこと、考えたこともなかった』とでもいうように、ぽつりと呟く。  まるで夢から覚めていないような虚ろな眼差しが、次第に現実に焦点を合わせた。  瞬く間に、頬も、耳も、刺繍入りのチョーカーでほとんど隠れている首筋さえも、真っ赤に染まる。大きな瞳が潤んで目尻には涙が滲んでいた。    目を見開く睡蓮の前で、今にも泣き出しそうな表情を浮かべて、陽は両手で顔を覆った。   「おっおれは、ただっ…ひっひばりとまた会えただけで、嬉しくてっ……! こんどはっ、ちゃんと、ふつうのともだちとして、さいしょから…やり直そう、って……!  ……それだけで十分だったのにっ…ひばりがっいっぱい大事にしてくれるから、そばにいてくれるから、嬉しくて……っ!  ……だから、もし、もう一度、雲雀が選んでくれたらっ…! その時はっ…おれもっ……!」    溢れそうな心を抑えるように、陽は胸の前でぎゅっと両手を抱き締めた。   「こんどは離さない、大事に、しようってっ……!」        ――告白にも挑発にも、動じなかった凪のような男が、    心を乱す。春の嵐のように。  花と日向の香りが咲き誇り、舞い上がる。    睡蓮のαの本能が、Ωの開花を感じ取った。  理解した。  頭ではなく心でもなく、本能が。  理解させられた。    たった一人の、運命の為だけに開く花。  最上のαに選ばれる、唯一無二の存在(Ω)。       「……どっ…どうしよう…っ」 「お前に何ができる?」    戸惑い揺れる陽の大きな瞳に、美しい顔立ちを歪める睡蓮が映り込んだ。   「ただ守られて、囲われて、気まぐれで愛でられ、最後には捨てられて死んでいくしかない、取るに足らない惨めな存在(Ω)のくせに……ッ!」    眉を寄せ、鋭い眼差しも、美貌も、歪ませて、声を荒げる。震える拳を握り締めて、溢れる激情を、塞がる喉を無理矢理開いて、叩きつけるように叫ぶ。   「あいつがいつまでもお前を構ってくれるかな?  今は無力なお前を憐れんでそばに居るだけだ! 一人でも立てると分かれば、いずれ離れていく。お前にそれは止められない!  お前なんかに、あいつを繋ぎ止める力はない!!」 「……それでもいいよ」    ぽつりと、零れ落ちるような呟きに、睡蓮はハッとして陽を見た。   「ずっと、待ってたから」    陽は臆することなく、戸惑いや動揺も見せずに、ただ真っ直ぐに睡蓮を見つめ返していた。   「今度は、正しく出会えてよかった。もしいつか、また離れる日が来ても、雲雀が他の誰かを選んでも、……もう一度会うことができた。また好きになってくれた。  それだけで、じゅうぶん。    おれは、生きていける」      ――どうして、揺るがない?    淡い桃色の奥底には、睡蓮の知らない何かが秘められている。毒にも棘にも、挑発にも揺るがない、積み重ねられたものが。   「……ねぇ、睡蓮くんにとって、Ωって何?」    呆然としていた睡蓮は、ハッとして陽を見つめる。  陽の、無遠慮で純粋な眼差しに、何故か身体が震えた。   「ただの性別じゃないよね。君にとって、おれ(Ω)なんて取るに足らない存在なんでしょう?  放っておけばいいのに、どうして、そうしないの?  どうして、無視できなかったの?」 「……っ!!」    ぞわり、と背筋が震えた。仄暗い奥底で、身を潜めている〝秘密〟さえも、何もかも照らし出されるという恐れが、全身を駆け巡る。  陽の無垢で聡明な眼差しが、何もかも暴いてしまう。   「何が嫌なの? 何が憎いの?    ……何が 怖いの?」    暗闇を照らし、全てを見透かすような淡い桃色を遮るように、  ガシャンッ、と砕け散る音が響いた。    投げ付けられた植木鉢が壁にぶつかり、激しく破片が飛び散っていた。向かってきたそれを、陽は咄嗟に横に避けていたが、破片は陽の頬や手を傷つけ、膝が擦り剝けている。けれど、陽はすぐに顔を上げた。    陽の視線の先で、睡蓮は息を乱し、固く握り締めた拳は震えていた。陽を睨む眼差しも、潤んで揺れる。    傷付いたのは陽であるはずなのに、何故か眉を寄せて、表情を曇らせた。   「……ごめん」 「ッ――!」    謝罪の言葉に、睡蓮が奥歯を噛み締める。衝動に任せて、睡蓮はもう一度植木鉢を手に取っていた。けれど、それが陽に向かうことはなかった。投げつけるはずだった腕は、止められていた。  睡蓮の意志ではない。睡蓮には止められない衝動だった。    睡蓮がハッとして振り返ると、雲雀が睡蓮の腕を掴んでいた。睡蓮の瞳が大きく見開かれる。   「……!! ひ、ば…っ」    ゴッ、と鈍い音を響かせて、雲雀の拳が睡蓮の顔に叩き込まれる。  怒りに任せた拳は、睡蓮の体を棚まで飛ばした。ガシャンと音を響かせて、睡蓮は倒れ、ぶつかった棚からは道具類が床に散らばった。  けれど、睡蓮は痛みに呻きながらも、すぐに身体を起こした。   「睡蓮……」    静かに、低く響く雲雀の声に、睡蓮は顔を上げた。    雲雀は形の良い眉を吊り上げ、眼差しは鋭く睡蓮を貫く。淡い青灰色の瞳の奥で怒りの爆炎が燃え盛り、鋭い牙は攻撃の意志を明確に示していた。   「どういうつもりだ!?」    雲雀が初めて見せる表情に、本気の敵意に、睡蓮は大きく目を見開いた。   「……陽!」    けれど、それはほんの一瞬のことで、雲雀の視線は陽へと向けられる。陽のもとに駆け寄った雲雀を、睡蓮の視線が追っていることなど、雲雀は気付かない。   「ごめん、一人にして……ああ、血が……!」 「大丈夫」    痛々しそうに寄せられる眉が、戸惑い揺れる青灰色の瞳が、震えながら触れる指先が、心配そうに歪む端正な顔立ちが    ただ、残酷に告げている。        もう、その眼差しが  自分に向くことは    ない、と。       「――ッ!」    耐えきれず、睡蓮は走り出した。  自分を呼ぶ、最上のαの声すら、今は苦しい。    ***    ほとんど人のいない校内で、それでも更に奥の校舎の裏まで、睡蓮は走った。  頬は紅に染まり、瞳は艷やかに濡れる。身体は火照り、一歩歩くだけで、その刺激で、苦しいほどに甘く痺れた。  胸を抑え、呼吸を整えようと試みるが、収まらない。   「はぁ、はぁっ……アァッ……!」    睡蓮は〝薬〟を取り出した。最近持ち歩かざるを得なかったそれを、牙で砕き、飲み込む。    乱れた呼吸を整えながら、睡蓮は自分のうなじに触れた。  胎が熱く疼く。  雄を求めて乱れる身体。  荒れ狂う本能。    全ては   「……忌々しい、〝Ω〟めっ……!!」    傷一つない、白いうなじに、自らの爪を食い込ませた。

ともだちにシェアしよう!