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20話-2 運命の花

「睡蓮!」 「待って雲雀!」    怒りのままに立ち上がろうとした雲雀を、陽が止める。自分の腕を掴む陽の白い手には擦り傷があって、雲雀は我に返った。   「いいの。おれがいけなかったの」 「…っでも」    陽はゆっくりと首を振った。   「……『容易く触れていいものじゃない』って怒っておいて……おれが聞いちゃいけなかった」 「……?」    雲雀は首を傾げたが、俯く陽の手や足に残る傷跡に、痛々しげに眉を顰める。しゃがみこんで、じっとその傷を見つめると、落ち込んだように肩を落とし、ため息をついた。   「……はぁー……」    雲雀のため息に気付いて、陽が顔を上げて首を傾げる。雲雀はちらりと陽の頬の傷を見て、またため息をついた。   「……俺の可愛い顔が……脚が……」    すっかり落ち込んでいる雲雀の呟きに、陽はきょとん、と目を丸くした。それから、小さく笑った。   「ふふ、『俺の』ってなに?」 「……」    陽は「雲雀がまた変なこと言ってる」と可笑しそうに笑ったが、雲雀は曖昧に微笑んで何も答えない。   (……あれぇ?)    陽はまた首を傾げた。不思議そうに雲雀を見つめて、目をパチパチと瞬かせる。  雲雀は何も答えないまま、陽の小さな膝の、小さな擦り傷に目を向けて、手を伸ばした。   「あっ、舐めとけば治るから、だいじょ、う、」    陽が伸ばした指先は、雲雀に届く前に止まった。  雲雀が陽の膝の傷に、それが何かの証かのように、躊躇うこともなく、舌を這わせたからだ。   (あ、あれ??)    目の前の光景に、ぐるぐるーっと頭が回る。   (なっなんで??)    埃と砂混じりの傷が舐め取られて、ざりっと異物感を感じる。じんと鈍い痛みがしみて、陽は膝をびくっと震わせた。  反射的に後退ろうとしたする陽の手を雲雀がぎゅっと掴んで引き寄せる。   「え、あっ」    陽が戸惑い、雲雀と掴まれた手首を交互に見つめる目の前で、雲雀は陽の手の甲の切り傷に舌を這わせた。  舌を這わせながら、雲雀が視線だけを陽に向ける。目を見開いた陽の桃色と、雲雀の青灰色が交わって、陽はようやくハッと息を吐いた。   「ひっ、ば」    陽の細い手首を雲雀が引き寄せて、自分自身も身を乗り出すように距離を詰めた。手首を掴んだままの手とは反対の手は、陽の頬に添える。  いつもの雲雀は陽を見る時、とても穏やかで柔らかな表情を見せるのに、今はそうじゃない。真っ直ぐに見つめる瞳が陽を捕らえて、離してくれない。   (あれ? ……あれぇ??)    生まれ持った美しさと鋭さを遺憾なく発揮して、綺麗な顔が間近に迫ってくる。陽はどうしていいかわからず、ギュッと目を瞑って顔を背けてしまった。  がぶりと丸呑みされてしまうのではないかと、震えて待っていたが、そうはならなかった。   「……っ?」    恐る恐る目を開けると、困ったように笑う雲雀と目が合った。  雲雀はそっと陽の頬に唇を寄せて、舌先で切り傷を舐めた。ピリッと微かな痛みは走ったが、雲雀はすぐに離れていく。 「立てる?」と陽の手を取って立ち上がらせ、丁寧に制服の埃を払う。  飛び散った破片は端に寄せ、テキパキと片付ける雲雀を陽は見つめて、ぼんやりと突っ立っていた。   「あとは明日手伝うよ。一応危ないから張り紙でもしておこうか」 「……うん。……ありがとう」    雲雀はいつものようににこっと笑った。   「送ってくよ」 「……うん」    陽が小さく頷いた。    ***    すっかり日が落ちた夕暮れの道を、二人は歩いていた。  猫は、陽のカーディガンに包まれたまま雲雀の腕の中にいる。手当された前足を舐めないように、エリザベスカラーをつけているが、大人しい。  花びら状のそれを見て、陽は「猫ちゃんのお花だ」と思った。    いつもなら別れる道までずっと、たくさん話をしているのに、今日はうまく続けられなかった。  雲雀はいつものように優しく話しかけてくれるのに、陽は時々ぼんやりしてしまって、いつものように話せない。ぎこちなく答える陽を気遣ってか、雲雀も必要以上に話しかけてはこない。  代わりに、雲雀は時折猫に話しかけて、撫でている。すっかり安心しきった「にゃー」という鳴き声が二人の沈黙を和らげていた。    陽は雲雀の横顔をこっそりと見つめて、先程間近に迫った、いつになく真剣な表情の雲雀を思い返した。    ――勿体無いことしちゃった……。    目を閉じてしまったことを、陽は少し悔やんでいた。       「……陽?」    陽がハッと顔を上げると、雲雀が数歩後ろで立ち止まっていた。陽は周りをキョロキョロと見回して、もう別れ道まで来てしまったことに気付いた。   「あ……」    自分の帰り道と雲雀を交互に見つめる。  聞きたいことがいっぱいあるけど、迫る雲雀から逃げてしまったことが引っかかって、何も聞けないままだった。  けれど、雲雀が不思議そうに首を傾げているから、慌てて笑顔を見せる。   「じゃ、じゃあ、おれこっちだから! 猫ちゃんのこと、よろしく…」    よろしくね、と続けようとした言葉は、最後まで出てこなかった。  雲雀の指先が、きゅっと陽の袖を抓んでいることに気付いて、語尾は音にならず消えていく。   (……あれぇ?)    陽の表情は笑顔のまま固まって、首を傾げる。何度か瞬きを繰り返して、ようやくハッと気が付いた。   「…あっ! カーディガンありがとー」    雲雀のを借りていたんだった、だから引き止めたんだ。と気付いて、陽はカーディガンを脱ごうとした。  けれど、その陽の手に雲雀が自身の手を添え、やんわりと止める。   (……あれぇ?)    陽はきょとん、として首を傾げ、雲雀の手を見て、それから雲雀を見上げた。   「……雲雀?」 「俺の部屋寄ってかない?」    優しく微笑む雲雀に、陽は目を丸くした。  何度も瞬きを繰り返して、いつもと変わらない爽やかな笑顔を見つめる。   「……えっと……」 「この前、陽の部屋に行ったろ? 今度は俺の部屋おいでよ。今日は親も颯も出かけたみたいだから」 「……」    陽が俯いていると、雲雀が陽の頬に手を伸ばした。反射的に身を引こうとしたが、逃げる理由が見つからなくて、優しい手を受け入れた。   「怪我の手当もしたいし」 「……でも……」 「そのまま帰したら俺が月詠ちゃんに怒られちゃうよ」 「……」    陽の大きな瞳が戸惑いで揺れる。  じっと見つめてみても、雲雀の笑顔はいつものように清々しく、後ろ暗いことなど一つもない、綺麗な笑顔だ。頬を撫でる手もいつものように優しくて、まるで大切なものを扱うかのように丁重に触れてくれる。    ――雲雀はあんまり気にしてないのかなぁ?    陽は僅かに俯いて考えた。  睡蓮の言葉があったから、自分が気にしすぎているだけなのかもしれない。そう考えると少し恥ずかしかった。   「……ダメ?」    ぽつりと零れ落ちた雲雀の呟きに、陽が顔を上げる。雲雀は寂しそうな表情で微笑んで、陽を見つめていた。  それが可愛く見えて、陽は困ってしまった。  困ってしまったけれど、何だかとても愛おしくて、思わず笑みを零してしまう。   「……ううん。ダメじゃない」    陽が笑うと、雲雀もホッとしたように笑う。雲雀の腕の中の猫が、にゃあ、とまた鳴いていた。

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