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21話-1 陽だまりの楽園
正門から学園まで続く道で、次々と生徒達が立ち止まる。
思わず振り返って確認する者もいれば、目を丸くしてじっと見つめる者、微笑ましそうに暖かく見送る者、そして、少し悲しげに微笑み、目を逸らす者まで様々ではあったが、その眼差しの向ける先は同じだった。
強く美しいαと、愛らしいΩ。
菖蒲堂雲雀と桃ノ木陽。
春頃から目撃されている仲睦まじい二人の姿は、今更珍しいものではない。
けれど、二人の関係に変化があったことを、片時も離すまいと固く繋がれた二人の手が示していた。
ただ寄り添い歩いているわけではなく、指先が交互に絡み合い、重なり合っている。肌寒さが増していく季節だと言うのに、まるでそこだけ春でも訪れたかのように花が舞う。花は咲き誇り、小鳥の囀りが祝福の歌となり、眩い光が彼らの行く先を照らし出しているかのよう。
……そんな集団幻覚さえ引き起こしかねないような、暖かく柔らかい空気を纏っていた。
戸惑う生徒達が自然と開けてしまった道を抜けて、二人は東校舎と西校舎の向かい合う中心までたどり着く。二人も校舎と同じように向かい合った。
「じゃあ、また昼休み」
「うん、あとでね!」
名残惜しそうに二人の手が離れていく。陽は東校舎に向かおうとしたが、雲雀の手がその肩を引き留めた。
決して強引な強さではなかったが、華奢な陽の身体はくるり、と回って、雲雀に向き直る。
「? ……雲雀?」
陽は雲雀を見上げて、首を傾げた。
雲雀は柔らかく目を細めている。陽がぱちぱち瞬きを繰り返していると、雲雀の両手が頬を優しく包みこんだ。
雲雀の朝陽に照らされた、色素の薄い長い睫毛や白い肌。ゆっくり近づいてくるそれをぼんやりと眺めていた陽は、額に柔らかな感触を感じてはじめて、口づけを受けたことに気付いた。
ぽかん、と口を開けて固まった陽を見つめて、雲雀はにこにこと笑みを浮かべていた。周囲のざわめきなど届いていないようだった。
「じゃ、あとで」
いつもよりもさらに爽やかな微笑みを浮かべて、雲雀は校舎の中へと入っていく。
陽はといえば、友人たちの声かけと、学園中に響いた美しい鐘の音の予鈴でようやく我に返り、慌てて教室へと駆けて行った。
雲雀の所属する特進クラスの教室からも、当然そのやり取りは見えていた。
雲雀が教室に入ると、周囲からは緊張感が漂い、視線が注がれた。だが、雲雀は何事もなかったかのように、颯爽と席に座った。
いつもならすぐに友人に囲まれてしまうはずなのに、クラスメイトたちは様子を伺っている。聞きたいことは山程あるのに、その『徹底的な一言』を聞き出す勇気や覚悟を、彼らはまだ持っていなかった。
「お、おはよう雲雀……」
「おはよー飛鳥」
「……」
そんな奇妙な緊張感に包まれた中で、最初に近づいたのは飛鳥だった。
雲雀は綺麗に微笑んで応えるが、飛鳥は複雑な表情でじっと見つめている。何かを言おうとして、何度も口を開けたが、なかなか言葉にできない様子だった。それでも、雲雀が首を傾げたところで、ようやく飛鳥は意を決したように、口を開いた。
「……あ、あのさ!」
「ん?」
「もっ…もしかして、桃ノ木陽と……その……つっ…付き合ってる……?」
教室内は突如静まりかえった。周りの生徒たちは、その瞬間を見逃すまいと、静かに息を殺して雲雀を見つめている。
飛鳥が、必死の想いで投げかけた疑問を、雲雀は少し目を丸くして受け止めた。
それから、目を細めて、
「……うん」
柔らかく、少しだけはにかんだように、微笑んだ。
次の瞬間、飛鳥は崩れ落ちる。春から続いた噂の終止符に、教室が一気に騒がしさを増した。やっぱりな、そうだと思った、と頷き合っている。どこかスッキリとしたような表情の生徒が多いが、崩れ落ちた飛鳥の側では、優介は遠くを見つめて「推しの喜びは俺の喜び推しの幸せは俺の幸せ」と泣きながら自分に言い聞かせるように呟いている。
照れているような、困っているような、幸せそうな雲雀の笑顔を見つめて、睡蓮は静かに教室から出ていった。
***
授業の始まりを告げる鐘はとっくに鳴り終わり、校舎は静寂に包まれていた。
睡蓮は校舎の裏側にいた。壁に手をつき、人目につかないようにゆっくりと奥へと進んでいった。
背中を壁に預け、胸のあたりをぎゅっと握りしめ、荒く息を繰り返した。発作のせいだけでなく、胸の痛みが身体をジクジクと蝕んでいくようだった。
『お前の浅ましい身体は、最上のαを手に入れる為に、今まで蔑み、虐げてきた性に成り下がろうとこんなにも必死なのに』
「……ハッ……その通りだ……」
数日前の君影ルイの言葉が、いまだに纏わりついて離れない。
なんて忌々しい、〝僕の中の〟Ωの性。
これさえなければ僕は完璧なαなのに。忌々しいΩ。何の役にも立たないくせに、僕を手こずらせる。
――欲しいものを手に入れさせてくれないくせに。
「……っ……」
昨夜殴られた頬が痛み、手を添えた。
この痛みと熱さだけが、彼から貰えた唯一のもの。
それが最後の支えのように、縋るように、睡蓮は目を瞑った。
暗闇の中で、二人の姿が浮かぶ。光を浴びて淡く輝く。苦しいのに目が離せない。
けれど、睡蓮がその気持ちを認めることはできなかった。
「……睡蓮?」
「――っ!?」
声が降ってきて、ハッとして顔を上げた。どれくらい時間が経ったのか、睡蓮には分からなかった。
ただ、蹲って膝を抱えていた自分に気付いて、恥じるように立ち上がる。
「……何の用だ?」
立ち上がって睨めば、彼は――雲雀は、眉を寄せた。
「……授業出てなかったから、探してたんだよ」
「……僕の勝手だろ」
「そうだけど……学校、来てたんだな」
雲雀は、少しホッとしたような表情を浮かべた。しかし、睡蓮の頬を見ると、再び眉を寄せた。
「……昨日、結構強く殴っちゃったから……。ごめん。大丈夫か?」
申し訳無さそうに寄せられた眉に、不安と後悔で揺れる瞳に、睡蓮は思わず奥歯を噛んだ。
「……っ触るな!」
「っ!」
労るように伸ばされた手を、受け入れたくて、縋りつきたい、と暴れる心を滅多刺しにして抑え込み、睡蓮はその手を払い除けた。
「用はそれだけか? なら消えろ。目障りだ」
「……」
雲雀は弾かれた手をぎゅっと握ると、鋭い眼差しで睡蓮を見つめた。
「……なんであんなことした?」
「……それが聞きたくてここへ?」
雲雀が自分を探しに来たのは、自分ではなく最愛のΩの為。
わかっていたはずなのに、胸の奥が痛む。
しかし、その痛みと屈辱を振り払うように、睡蓮はハッと挑発的に笑ってみせた。これ以上、雲雀の前で脆さを見せたくなかった。あのか弱いΩとは違うのだと、見せてやりたかった。
「僕がΩを嫌っているのを知っていただろ? 特に……そう、あいつのように、何もできないくせにのうのうと生きているΩが嫌いなんだよ」
「……何かあったのか?」
「は?」
怒りを買うように吐き捨てたはずが、雲雀は眉を寄せるだけだった。ただじっと、訝しげに睡蓮を見つめている。
「……お前、最近おかしいぞ」
「何が?」
「お前は確かにΩを嫌ってるし傷つけてきた。それを許すつもりはない。でも今までは、αやβからΩを遠ざけるようなことはしても、直接危害は加えなかっただろ」
睡蓮が目を見開き、雲雀を見つめる。
雲雀もまた、眉を寄せ、痛ましい表情で、睡蓮を見つめている。
「それが陽に対してだけやたら攻撃的になって……何があったんだよ」
「……あいつに聞いてみたらいいじゃないか」
「聞いてもわかんないからお前に聞いてんだ」
「……あいつはなんて?」
「『おれが悪かったの』ってしか言わない」
「……ははっ!」
笑う睡蓮に、雲雀は首を傾げた。
「馬鹿だとは思っていたがこれほどとはな……! ……っあんなΩに、憐れまれる日が来るなんてッ……!!」
俯いていた睡蓮が顔を上げた。目は歪んだ怒りと憎悪に満ち、ギラリと光っていた。狂ったように笑う睡蓮を、雲雀はじっと見つめていた。
怒りや嫌悪ではない。美しく正しい眼差しが、憐れみを込めて、睡蓮を責めるように、向けられている。その眼差しに、睡蓮は堪えていた感情が溢れ出してきて、止められなかった。
「僕はただ、あの顔が気に入らなくて、叩き潰したかっただけだ! Ωのくせに、世界の幸福はすべてここにあるとでも言うような、あの笑顔が、消えてなくなればいいと!!」
「睡蓮……」
「あいつ来てからおかしい? 僕が? おかしいのはお前だろう!?
優しさを振り撒きながら、強くて孤独で、冷たいお前は美しかった! ……なのに、情けない、腑抜けた面を晒すようになって……! どいつもこいつも染められて……何もかもあいつの思い通りに変えられていく!!」
「……陽はそんなこと望んでないよ。誰かを変えようなんて思ってない」
「どうかな? あいつが現れてから、学園中に花が咲き乱れて、今までの秩序も節理も踏み躙ってきたじゃないか。……まるで侵略だ! 気持ちが悪い!!」
「睡蓮」
咎めるように少し強く、それでいて癇癪を起こした子供に問いかけるような優しさで、その声は響いた。
「……睡蓮、俺は何も変わってないよ。
古典的って言われたっていい。陽に近付けるなら何でもした。でも陽に嘘や見栄は通じなかった。強がってたって、陽は全部見透かしてくる。……だから自分のままでいられる。
誰にも渡したくないけど、それ以上に大事したい。俺のそばで笑っていてほしい。
情けなくたって構わない。
陽に選ばれたいだけなんだ」
――……ッ!!
『他人がいると眠れねぇんだよ』
――いくら求められても、誰にも心を明け渡さなかった男に
同等の価値があるはずの僕にさえ心を許さなかった、最上のαに
こんなにも強く、熱く、求められているのが
どうして、|あのΩなんだ? 《僕じゃないんだ? 》
「……そんなにあいつが大事ならしまっておけばいい! そんな腑抜けた面を晒すくらいなら消えろ!」
「待て、睡蓮……っ…?」
睡蓮が雲雀の手を振り払う。すると、雲雀の身体がぐらりと傾いた。
「な……?」
雲雀も、そして振り払った睡蓮も、目を見開いていた。伸ばされた手を振り払う程度の力で、雲雀が膝をつくなど、あり得ない。
それに雲雀の方が一瞬早く気づいたのは、一度経験したからだった。
「……え、これ……?」
噎せ返るほどの甘い香りに、気付いた。
雲雀が辛うじて顔を上げる。
睡蓮は、見たことのないような表情で硬直していた。
凛々しく鋭い眼差しは大きく見開き、薄い唇は震えている。
「……睡蓮……? これはっ……!?」
「ッ……!!」
睡蓮はハッと我に返り、振り返って逃げ出した。
「まっ……すいれっ……くっ……!!」
追いかけようとしたが、立ち上がれない。踏み出そうとした脚は力が入らず、また膝をついた。
崩れ落ちそうになる身体を支えるのが精一杯だった。
(……どうなってるんだ……?)
甘い香りに、頭を殴られたような目眩。
脳を揺さぶる暴力的な魅了 。
――なんで、:睡蓮(α)から?
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