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21話-2 陽だまりの楽園

 どこへ逃げていいかもわからないまま、睡蓮は走った。縺れる足を、何度も奮い立たせて、ただただ何処かへ逃げたかった。  それでも、雲雀の表情が焼き付いて離れない。  乱れる呼吸に淫らに火照った身体、そして魅了(フェロモン)を纏っていたこと。  その意味に、雲雀が気付くのも時間の問題だろう。    ――誰よりも、何よりも、対等で在りたかったのに。    魅了が受け入れられなかったことよりも、それだけが睡蓮の胸を締め付けた。じわりと滲む視界と、ツキンと痛む鼻の奥の痛みに、耐えるように顔を伏せる。    その瞬間、身体が何かにぶつかった衝撃で、弾かれた。   「いってぇっ?! なんだよ?!」 「……ッ!?」    廊下に倒れ込んだ睡蓮が顔を上げる。そこにいたのは、昨日街中で出会ったαの男だった。  ハッとして周りを見れば、睡蓮がいるのは東西校舎を繋ぐ渡り廊下だった。授業を終えた生徒たちが、どちらの校舎からも通りかかる頻繁な場所だ。  αの男が声を荒らげたこともあり、何事だろうか、と視線が集まってしまった。   「……あ? お前この間の……それに……これ……」    ひくり、と男の鼻が反応を示した。睡蓮自身でも分かるくらいに濃く香るそれに、気付いたのはαの男だけではなかった。   「なに、これ?」 「もしかしてΩの……?」 「でも、だれ?」 「Ωなら、芙蓉の方だろ?」 「え、でも制服が……」    睡蓮はぎくりと肩を揺らした。  自分の意思とは裏腹に、魅了(フェロモン)は周囲に影響を及ぼし始めていた。首を傾げる程度で済んでいる生徒もいるが、すでに魅了(フェロモン)に煽られ、睡蓮をじっと凝視し、喉を鳴らす者もいた。  今すぐにでもその場を去りたかったが、このままでは校内での醜態を芙蓉に押し付けることになると思うと、動けなかった。    「どっちでもいいよなあ?」 「……っ! アッ……!」    一番近くにいたαの男が、睡蓮の腕を掴んだ。  荒く息を乱し、頬を紅潮させている。その目は、先日のものより爛々と鈍く輝き、今にもこの場で襲い掛かってきそうだった。   「何でもいいよ、来いって」 「ッ……! は、はなせ……!」    睡蓮が身を捩り、抵抗する。けれど本能に身を任せたαの男の力は、腕が軋む程に強かった。  αの男と一緒にいた生徒もまた、睡蓮を逃すまいと、次々に手を伸ばしていた。   「……ッ! やめっ……」      ***      ――……どうなってんだ?!    雲雀は、重い足を引きずるようにして、ようやくたどり着いた。しかし、渡り廊下の出入り口で再び目眩がして、壁に身を預ける。  渡り廊下の中心にいる睡蓮からは距離があり、魅了(フェロモン)らしきものは掠める程度に香るだけだ。それでも、脳がぐらん、と揺さぶられるようだった。    その間にも、ふらふらと覚束ない足取りで、睡蓮に惹き寄せられる生徒の数は増えていく。甘く淫らな香りが本能を支配し、その目には睡蓮だけしか映っていないようだった。  睡蓮を捕えようする手が、何本も増えていく様に、雲雀はぞっとした。   「……! やめろ!!」    止めようと踏み込んだが、力が入らず膝をつく。勝手に早まる鼓動を抑えようと、胸をぐっと掴んで、顔を上げた。  脳を犯すような興奮と熱気が空間を覆っていくのがわかった。    ――おい、嘘だろ……?    この学園では、徹底的にαとΩが分けられている。雲雀自身、陽以外のΩとの関わりも少ない。    だから、こんなにも厄介だとは思いもしていなかった。生まれ持った性が、本能が、理性を犯してしまうことが。  自分さえ気をつけていれば大丈夫だと、思っていた。    生徒が群がって、ついには睡蓮の姿を見失ってしまった。   「おい、待て…ッやめ……」    声は届かず、立ち上がることすらままならない。  雲雀は、無力さに奥歯を噛み締めた。    「…………あっ……」     その時、人集りの奥で、渡り廊下の向こう側が垣間見えた。一瞬だけだが、確かに〝いた〟。  雲雀の歪む視界で、そこだけ、柔らかな日差しが照らし出すかのようだった。   その子は、華奢な身体で、大きく息を吸い込んだ。   「芙蓉くん!!」    噎せ返るような空気を、吹き飛ばすかのように声が響く。凛と響いた強い声に、皆ハッとして動きを止め、夢から醒めたように瞬きを繰り返している。  雲雀もまた、それまでの纏わりつくような重さが嘘のように身体が少し軽くなっていた。残る気怠さは頭を振って振り払う。それでようやく、立ち上がることができた。    同時に、彼が――陽が駆け出した。    呆然と立ち尽くす生徒たちを押しのけ、〝芙蓉〟のもとに駆ける。〝芙蓉〟を生徒の視線から隠すように自分の上着で覆うと、αの男から彼を奪い返した。  陽に突き飛ばされて、〝芙蓉〟を囲んでいた生徒たちが我に返る。   「なっ……待てよ!!」    正気を取り戻したはずだが、それでも獲物を逃すまいと、αの男の手が陽に向かう。  その手に捕まることなく、陽は〝芙蓉〟の手をしっかり握って、雲雀の方へ走ってきた。     すれ違いざまに二人の桃色と青灰色が交錯する。  ほんの一瞬だった。  陽はそのまま、振り返ることなく走り抜けていく。    言葉を交わすことも、事情を共有することもなかった。  それでも、この場を任されたことを雲雀は感じ取った。       陽から数秒遅れて、雲雀のすぐ横を通り過ぎようとした男の前に、長い脚がダンッと壁を蹴る。   「あ?! なん……ひ、雲雀?!」    乱暴に行く手を阻んだ長い脚の先を、男が睨む。その途端、より強く鋭い眼差しに睨み返され、固まってしまった。   「……陽に何か用か?」 「え!? いや、ちがっ……そんなつもりじゃ……!」    先頭を切っていたα男も、その後ろに続いた生徒たちも、慌てて目を逸らし、後退る。『普段温厚な人間がキレるとヤバい』を体現する男、菖蒲堂雲雀を前にしてすっかり怯えていた。   「兄さん!」 「……颯?」    慌てた様子で、颯が駆け寄ってきた。   「今、陽さんが……一体何が……!?」 「あとで話す」    弟の姿を見て、雲雀はほっと力を抜いた。魅了(フェロモン)も、その名残も消え去ったが、身体が本調子とは言い難かった。  足を下ろして、壁に寄りかかる。ゆっくりと深呼吸を繰り返していると、颯が不安そうに見つめていた。   「大丈夫ですか?」 「……ああ……ちょっと浴びた」 「……?」     『芙蓉くん!!』    (……芙蓉……だったか?)    乱れた呼吸を整えながら、僅かな違和感に首を傾げる。あそこにいたのは、自分が追っていたのは、確かに睡蓮のはずだった。   「俺は平気だから、お前は陽のとこへ」 「……でも、……わかりました」    颯は一度だけ心配そうに振り返って、陽が走り去った方へと向かった。    ――……陽に任せよう。    〝彼〟が睡蓮か芙蓉か、それはどうでも良いことだと思った。  相手が誰であっても、陽はきっと同じ行動をしただろう。  〝彼〟を救い出す為に、走っただろう。  その確信があった。    ――敵わないなぁ……。    あの乱れた空気に呑まれることなく瞬時に行動した陽を、遠ざかっていった小さな背中を、雲雀は誇らしく思った。    そして、相応しい人間でありたい、と強く、願った。     ***      戸惑いとざわめきに紛れて、視線を感じる。  思わず睡蓮は頭から被された上着を握りしめてしまった。    誰?  何があったの?  もしかして、Ωの?    囁きが耳に届いて、不本意にも足が重く、鈍る。震えそうになる身体を抑え込む。  すべてを閉ざして、暗く冷たい汚泥に沈んでいくように。   「〝芙蓉〟くん」    ハッとして睡蓮は顔を上げた。上着の隙間から覗くのは、睡蓮の手をぎゅっと握り締める、か弱い手だった。   「芙蓉くん、こっち」    陽の声掛けに、周囲の視線が少しだけ逸らされていく気がした。やっぱりΩの、大変だね、と納得して、好奇の眼差しは消え失せていく。興味はあっても、あえて見ないようにする気遣いや配慮が、睡蓮には痛かった。    ――……違う、僕は、芙蓉じゃ……   「――……っ」    口を開いたが、睡蓮が真実をこの場で語ることはなかった。言葉は音にならず消えていく。  睡蓮はまた、被ったままの上着を握り締めた。    上着の中は、花とお日様の香りで柔らかく満ちている。  その隙間から覗くのは、睡蓮を導く小さな手だ。    ――……くそっ……。    いつだったか、自分が傷つけたはずの白く柔らかい手は暖かい。  それが、どうしようもなく憎かった。     ***     陽が立ち止まって、睡蓮は僅かに顔を上げた。扉を開けて中へと促される。躊躇う睡蓮の背中をグイグイ、と押して、陽もその部屋に入った。    顔を上げると、上着がぱさり、と頭から滑り落ちていく。  消毒液の匂いが薄らと香り、白を基調とした清潔な室内には誰もいなかった。睡蓮は東校舎のΩだけが利用できる保健室であることに気づいた。   誰もいない。視線も気配も感じられない。  睡蓮は自分でも気づかぬうちに、ほっと息をついていた。   静かな空間で、かしゃん、と鍵をかける音が響き、ハッとして振り向く。   「……大丈夫?」    柔らかく暖かい桃色の眼差しが、頭の中まで覗き込むように見つめている。それはまるで、すべてを照らし出すように聡明で……睡蓮は咄嗟に後退り、睨み付けた。   「……っ僕は!!」 「睡蓮くん」    名を呼ばれ、睡蓮は、息を飲んだ。一瞬、息が止まって、目を見開く。ただ呆然と陽を見つめ、「どうして……」と呟いた声は震えていた。   「……颯に芙蓉くん呼んでもらうから待ってて」 「やめろ!」 「バレたくないんでしょう?……芙蓉くんから聞いた」 「ッ!?」   睡蓮の肩がビクリと震え、動きを止めた。目を見開き、息をすることも忘れたように硬直している。肩にかかっていた陽の上着を、ぎゅっと握りしめた。 「……っ…出ていけ!!」   睡蓮が上着を投げつけ、陽の顔に当たってパサリと落ちた。それでも陽は表情一つ変えず、上着を拾い上げた。   「芙蓉くんが来たらね」 「ふざけるな!! お前なんかいらない! 消えろ!!」 「睡蓮くん」    睨み、牙を剥く睡蓮の前で、陽はゆったりと柔らかく微笑む。   「大丈夫。怖くないよ」 「……――ッ!!」    無防備な桃色の瞳に、怯えるように威嚇する自分の姿が映り込む。  その姿に、腹の奥がずくりと熱く疼き、心臓が一際高く跳ね上がった。   「ハッ……、アァッ……」    胸を抑えてよろめく。腰が震えて、身体が跳ねた。  あの桃色に自分がどう映っているのか容易に想像できて、睡蓮はぎゅっと目を瞑った。   「……っ見るな…っ…」    倒れる前に、咄嗟にベッドに逃げ込み、カーテン閉めた。荒れ狂う本能に必死に抗うように、で身体を抱き締める。   「んぅ……ぁうっ、んっ……」    声が漏れぬように手で抑えたが、身動ぎするだけで鼻にかかったような声が静かな部屋に響く。    対等でありたかった最上のαには、無様な姿を晒してしまった。  その最上のαを奪った男に助けられた挙げ句、何もかも暴かれた。  ここに来るまでの間、向けられた好奇の視線、憐れみの眼差しも、誇りを磨り潰していく。  どうしようもなく惨めに思えた。    ――逃げ出したい。    ここではない場所へ。  誰も自分を知らない、求めない、自分を奪われない、静かな場所へ。       「……っ、……?」    その時、ふと背中に、柔らかな感触が添えられた。  閉ざしたカーテン越しに、暖かさが伝わる。   「……君にとって、おれなんて取るに足らない存在なんでしょう? 誰も見てないのと一緒だよ」    身体は情欲で燻る熱を持っているのに、それでも陽の掌は、何故か暖かく感じられた。   「大丈夫だよ。明日にはまた強い|自分《睡蓮くん》になれる」     ――暖かい、柔らかい。  ――陽だまりの、   「大丈夫」    震える細い背中が  凍える心が   柔らかく 暖かく 包まれていく。     白いカーテン越しに抱き締められ、真っ白になった世界は  まるで、陽だまりのように、優しくて暖かかった。

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